「平野(ひらの)七名家」の祖で、都が京都に移された直後の征夷大将軍として知られる「坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)」(758~811)。
その命日に当る、今日・5月23日、今も続く七名家一族が「杭全(くまた)神社」境内に在る「田村堂」に参拝し玉串を奉納する「田村祭(たむらさい)」が、執り行われます。
田村麻呂の子、「坂上広野麿(さかのうえの・ひろのまろ)」が朝廷から拝領し居を構えた「杭全郷(くまたごう)」の一部の土地を、子孫の坂上一族が開発。のち、「広野(ひろの)」から「平野(ひらの)」に転訛して地名が生れたとされます。
そして、広野麿の子である「当道(とうどう)」が、貞観(じょうがん)4年(862)に、氏神として「素盞鳴尊(すさのおのみこと)」を勧請して「祇園社」を創建したのが、明治以降の「杭全神社」の最初とされます。
その後の熊野権現の勧請を合わせ、本殿は三殿からなり、いずれも重要文化財指定を受けています。
正式な本殿は、わずかに屋根が見える程度ですが、それぞれの拝殿に相当すると思われる朱塗りの三連の建物が設けられています。
< 第一本殿。貞観4年(862)勧請「素盞鳴尊」。 >
< 第二本殿。元享元年(1321)勧請「熊野三所権現」。 >
< 第三本殿。建久元年(1190)勧請「熊野證誠権現」。 >
今日、「田村祭」が執り行われる、「杭全神社」の別社「田村堂」です。
訪れた21日、この日に備えて、白壁の塗り替えが行われていました。 ( つづく )