「大阪市阿倍野区昭和町(しょうわちょう)」。
今日は、その町名表示板を通じて、昭和時代を振り返ります。
現在の町界・町名となったのは、昨日も述べた通り、昭和41(1966)年。
次の地図は、その翌・昭和42(1967)年10月20日初版の『大阪区分地図帖』(日地出版)から。
「国鉄阪和線」東側の東住吉区では、まだ現行町名に変っていません。
先ずは、現在の街区の4隅に掲示されている「街区表示板」。
プラスチック製で平板型とカマボコ型があります。
新しい内は綺麗ですが、劣化や破損しやすい欠点があります。
この例では、「区名」=阿倍野区、「町名」=昭和町4丁目、「街区符号」=9(番街区)
「ローマ字併記」= Showacho 4-chome Abeno-ku と、
「区の花」=もも・ベチュニア のデザイン画と文字が表記されています。
また、各戸毎には、「町名板」と、街区符号-住居番号を記した「住居番号板」が貼られています。
ここでは、「街区表示版」の内容に関する歴史を紐解き、年代推定に役立てたいと思います。
●「阿倍野区」の誕生は、昭和18(1943)年4月1日。
●街区を表示する「住居表示制度」が出来たのは、昭和37(1962)年5月10日。
それまでの○丁目○番地というような、「町名番地」表示に変るものでした。
●加えて郵便配達の便の為に、更に昭和43(1968)年に「郵便番号制度」が導入されます。
●「阿倍野区の花=もも・ベチュニア」は、昭和62(1985)年度に制定されました。
●「街区表示板などのローマ字併記」は、平成10(1998)年3月に初めて出された、
「大阪市外国籍住民施策基本方針」に基づき推進されているものです。
従って、昭和の時代に、プラスチック製のものはありません。
昭和37(1962)年以降、大阪市もしくは阿倍野区が、プラスチック製の前に設置していた「街区表示板」は、「アルミ製」でした。
区名表示を「阿倍野区」とするものと「阿倍野」とするものの、2種が残されています。
次に見るのは、「アルミ製」より古い、「鉄板製」で「広告入り」のもの。
東住吉区で見かけた「仁丹」は見かけませんでしたが、「グリコ」と「救心」がありました。
お馴染の胸にグリコと書いたランナーには、「一粒300メートル」ではなく、「おいしさと健康 GOOD HEALTH AND GOOD TASTE」とあります。
このグリコが提供・管理したと思われるものには、「郵便番号」の案内のような記載がありますので、昭和43(1968)年にそれが導入された当時のものでしょう。
「阿倍野区」の「郵便番号は545」と、「昭和町○丁目」が記されています。
< 昭和町1丁目 > < 昭和町3丁目 >
< 昭和町4丁目 > < 昭和町5丁目 >
古い町名板は、このような焼き杉の板塀がある家などでよく見つかります。
「救心」の方は、郵便番号はなく、「阿倍野区 昭和町3丁目」のものがありました。
これまで、「昭和町2丁目」のものはありませんでしたが、ちょっと変ったものがありました。
「街区表示」が始まってからのものですが、鉄板製でどうやら手書きのようです。
明日は、現行町名以前の表示板を探します。