中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 江戸期の大和川付け替えの迷惑運動で、最も北に集落のあったのは、「安倍野阿倍野」。

 その集落の位置は、その名が示すように、現在の「阿倍野区阿倍野元町」辺りです。


 天和(てんな)3年(1683年)の4月21日、5回目の「大和川付け替え検分」で示された新川筋は、海へ落とす地点が大きき北に振られ、崖状を呈する「上町(うえまち)台地」の西方に何個所かある「潮口部」の一つかと思われる「安倍野村口谷(くちだに)」(もしくは口田谷)へのルートでした。

 2日後の今日・4月23日、27ヵ村連名で訴えた訴状には、他の検分時には見られない、現在の「長居公園通」より北に位置する村々の名が多く、「安倍野村」も含まれています。

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 地図は明治時代のものですが、江戸期の様子を概略伝えているとみられます。

 下部に見える新大和川近辺の水色の村々は、他の検分時には迷惑を訴えていた常連。

 天和3年時は、赤い横線で示した、現在の長居公園通よりほぼ北に位置する村々が訴えました。





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 この表は、付け替えまでの6回の検分の内、村名が伝わっている4回の検分時に、迷惑を訴えたことのある、河内国3郡と摂津国2郡の内、下流部に当る摂津国の村々の様子を示したものです。

 5回目になる天和3年のルートが、特異なものであったことが分かります。


 上記の内、現在の「阿倍野区」と「東住吉区」にあった村の位置を明治の地図で確かめます。

 地図は、「大日本帝國陸地測量部」が、明治18(1885)年測量、明治20年に製販されたものです。

 「あべの村」は、付け替え関係の絵図にも見られる、「安倍野村」の字が使われています。

 「松原新田」は現在の「東住吉区山坂」、「猿山新田」は「阿倍野区西田辺町」付近になります。


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             < 「阿倍王子神社」の鳥居と、「もと熊野街道」の石柱


 「東成郡・阿倍野村」は、江戸期から、明治22(1889)年の町村合併で「天王寺村」の大字となるまでの村名です。


 古くから軍事・交通上の要所で、「熊野街道」沿いに集落がありました。

 丘陵地で用水の便に恵まれませんでしたが、畑作を中心に「木綿」「天王寺蕪」「天王寺大根」を三大産物とする時期もありました。

 村の生活は、「阿倍王子神社」に属する三つの講を中心に、その神宮寺である「印山寺」と一体となって営まれてきたとされています。


 この阿倍野村の集落があった、「阿倍野区阿倍野元町」をぶらりとしたいと思います。


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                  < 「阿倍王子神社」の神宮寺「印山寺」