「東住吉区山坂4丁目」に、チョット変った円形と三角形の土地があります。
ひとつは、通りの四つ角が丸くなっと所、もう一つは、隣同士の家の間に生まれた、奥を頂点とする三角形の空間です。
これらは、大正9(1920)年、当時の「東成郡田辺町大字松原」の地に、「大阪住宅経営会社」が開発した「松原住宅」に関連しています。
江戸~明治期の「松原新田」の地に開発された「松原住宅」は、東側北部の旧集落と、西側の長池の方向に沿った形で数本の道路が造られ、それぞれの道路側に向いた家が建てられました。
その道路の向きは、現在で言うと、「JR阪和線」に沿っています。
また、それに直交する道路も造られ、区画が出来、「四つ角」がうまれました。
その内のひとつの、四つ角は丸い窪みが造られ、円形の空間・広場ができました。
何故、このような空間を造ったのかはさておき、まず、その形をみましょう。
< 北東側 7番街区 >
< 北西側 8番街区 >
< 南西側 11番街区 >
< 南東側 12番街区 >
ここで「盆踊り」も行われた時期もあったという、この円形広場。
地元では今も「ロータリー」の名前で呼ばれています。
実は、松原住宅から、最寄りの鉄道駅までを行き来する「バス停」に供するための処置で、ここで車がまわって方向を転換したのです。
その最寄駅は、当時の「南海平野線」の「田辺駅」。「股ヶ池(ももがいけ)」と「駒川町」の中間駅でした。
「松原住宅」開発の少し以前、大正3(1914)年に「旧・阪和電気軌道」が開業、翌年に、「南海鉄道」と合併していました。
因みに、現在の「JR阪和線」の利用は、昭和4(1929)年まで待たねばなりませんでした。
また、「南海平野線」は、昭和55(1980)年に「地下鉄谷町線」に継承する形で廃線されています。
もう一つの、三角形の区間とはこんなものです。
「貸駐車場」として利用されています。
これは、先の「松原住宅」に沿った道路と、それより東に、のち、東西南北の方角に沿う形で道路を造成、住宅が開発されとことにより、それに挟まれたことにより生まれたものです。
最初の地図でも分かるように、「松原住宅」側にそれに面する形で建てられた家と、それより南側で新住宅地の方向合わせて建てられた家の間に、必然的に生まれてしまった土地でした。