大阪市住吉区苅田地区の散策。
最後に訪れるのは、地区5公園で最も南にある「苅田10公園」です。
「苅田10丁目」の●C地点から、「阪和貨物線跡」沿いの道(地図 青線)を通って、公園に向かいます。貨物線跡から少し離れた位置に、「苅田10公園」があります。
< 「苅田10公園」の西端部から >
< 「苅田10公園」の東端部から >
「苅田10公園」の北側の道を東に進むと、地図の●6→●7の、「阪和貨物線跡」の「旧踏切部」のすぐ南に出ます。
< 大和川堤防から●6南の、道が狭まった旧踏切部を望む。 >
ところで、現在の町区画、「苅田1~10丁目」が誕生したのは、30年ほど前の昭和56(1981)年。
それ以前の地図を見ると、「苅田町1~11丁目」と「苅田町」があります。
そして、現在の「苅田10丁目」は、「苅田町11丁目」と「苅田町」の一部であり、更に、大和川河川敷は「我孫子町」であったことが分かります。
最後に、江戸期の「苅田村」と大和川付け替えとの関係を少し見ておきます。
< 明治期の地図に見る「苅田村集落」の位置 >
本連載のスタートでも述べたように、現在の住所表示板には「Karita(かりた)」とあり、これが正式な呼び名とされていますが、かつては地元に伝わる、「かった」あるいは「かつた」と呼ぶのが一般的であったと思われます。「苅田」のほかに「勝田」と記された史料も伝わっています。
さて、大和川の付け替えは別として、江戸期の村々の様子がほとんど変わらず伝わっていると思われる明治期の地図では、「苅田村」の集落は「庭井村」の北方にあり、その西方にも苅田村の田地が広がっていますが、付け替えられた大和川の位置までは達していなかったようです。
事実、付け替えによる「潰れ地」は、苅田村には発生していません。
大和川北側の村 ①=庭井村 ②=枯木村 ③=住道村
大和川南側の村 ④=北花田村 ⑤=砂村 ⑥=城連寺村
この図は、付け替えられた大和川筋の、元の地形などを表したものです。
明治期の地図に見える、「苅田村」に近い、「庭井村」や「枯木村」の集落付近の大和川付け替え工事を担当した御手伝大名は、摂津国の「三田藩主・九鬼大和守隆方」でした。
付け替え地点1番杭から1町(約109m)毎に打たれた杭の76~99番間の23町(約2.5km)を担当しています。その西方、地形が高くなっていっているのは、「浅香山」にかけての高台です。
工事に際して、6月1日以降には、「普請役所」が「苅田村」に設けられました。
また、幕府の「大和川付け替え検分」は、実施までに6回行われていますが、迷惑を訴えた村の名が伝わっている4回の検分の内、2回目の寛文5年(1665年)と6回目の元禄16(1703年)の2回、「苅田村」が、「庭井村」や「我孫子村」などと共に、名乗りを挙げています。
庭井・我孫子村が参加した4回目の延宝4年(1676年)は、参加していません。
「住吉区苅田」地区の散策は、今日で一区切りとします。
住吉区苅田 (1)~(10) 10月22日~31日のブログ
住吉区苅田 (11)~(15) 11月10日~14日のブログ
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 11月14日 要旨 ☆★
大阪城公園の南にある「難波宮跡」。飛鳥時代の「前期難波宮」と奈良時代の「後期難波宮」の宮殿跡が見つかっています。前期は、大化元年(645年)造営の第36代・孝徳天皇の「長柄豊崎宮」とみられ、藤原宮・平城宮に先行する、日本最初の本格的宮殿。新たに7世紀中頃の高さが10mを超すとみられる高床式重層建物跡が見つかり、平成18(2006)年のこの日に発表されました。「河内湖」を望む絶好の位置にあり、皇族が眺め酒宴を楽しむ「望楼」か外国使節をもてなす「迎賓館」と思われます。