中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 「田辺西ノ神・山阪神社」(大阪市東住吉区山坂2)の境内を、もう少し見ることにします。

 先ずは、東面する社殿に相対する形で、灯篭や鳥居が建っています。

 東の方角にある神宮を、遥かに遠くから拝む「伊勢神宮遥拝所(ようはいじょ)」です。


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 石灯篭には、「田辺西ノ神」を表す「田邊(田辺)西神社」と、「天明七年(1787年)丁未(ひのと・ひつじ)秋九月」の銘が刻されています。





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 火とカマドの神である、「素釜三寶(三宝)荒神(さんぽうこうじん)」も祀られています。


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 続けて、石碑などを見ます。







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 大正14(1925)年11月建立の、「田邊(田辺)町之碑」です。

 「明治神宮宮司 陸軍大将 一戸(いちのへ)兵衛 書」とあります。

 碑背(ひはい)・碑陰(ひいん)とも言う石碑の背面には、藤沢黄坡による「田辺碑陰記」が刻されています。

 「田辺町」は、大正3(1914)年から同14(1925)年まであった東成郡の自治体名です。

 それまでの村体制時の「北田辺・南田辺・松原・猿山」の4大字を継承しました。





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 各地の神社にある「日露戦没紀念碑」(明治40・1907年6月建立)もあります。

 「紀念」は、当時によく見られますが「記念」の誤用です。


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 大正3年(1914)年11月15日の摂河の地での大演習に、大正天皇が来られた時の記念碑です。

 左側は、「大正三年特別大演習 駐蹕之碑」(陸軍大将大迫尚道 書)。「駐蹕(ちゅうひつ)」とは、蹕(さきばらい)を駐(とど)めるの意味で、天皇の行幸中、一時、乗り物をとどめることを言います。

 右側は、「大正天皇御野立所跡」の碑。「野立(のだち)は大演習などでの天皇の野外の休息所です。


 この時、「便殿(べんでん)」という、天皇の休息のための御殿(ごてん)は、田辺町の「桃山中学校」(現・桃山学院中学校)に設けられました。


 尚、11月15日には大阪城大本営で、故・中甚兵衛への従五位(じゅごみ)贈位などの沙汰がありました。





★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 10月12日 要旨 ☆★


● 《 玉手橋が国の登録文化財建造物に(2001) 》

 柏原市と藤井寺市の境界を形成して北流、大和川に流入する「石川」に、ロマンチックな吊り橋である「玉手橋」が架かっています。昭和3(1928)年3月に、大阪鉄道(現・近鉄)の「道明寺駅」から、石川対岸の「玉手山遊園地」への導入路として設置されました。今では遊園地は閉鎖されましたが、付近住民の生活道路に架かる橋として尊ばれています。平成13(2001)年のこの日、吊り橋としては全国で初めて、国(文化庁)の登録有形文化財(建造物)となりました。同時に、大和川から長瀬川への取水口である「築留二番樋」も登録されています。