中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 今回のシリーズで訪れたのは、元々の「瓜破村」の集落で、のちに「東瓜破村」と称される地域の神社や寺院でした。

     瓜破天神社(西ノ宮)  敬正寺(大谷派)  小松神社(東ノ宮)

     成本天神社(北ノ宮)・安楽寺(本願寺派)   縦線=中高野街道


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 貞享4年(1688年)の「東瓜破村絵図矢倉家文書)です。

 緑の縦線の「高野道」(中高野街道)を挟んで、「東瓜破村」の集落と「天神社」の「宮 除地」が、北東隅には「東瓜破村領 成本村」の集落と同じく「宮 除地」が描かれています。

 「宮 除地」とは、神社の敷地で、年貢が免除される土地のことです。 






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 冒頭の地図とほぼ同じ地域の「土地条件図」です。●印の色などは先に準じています。

 オレンジ色の下から張り出しているのは、南の羽曳野丘陵から続いているもので、この辺りは「瓜破台」と呼ばれる低位の台地です。「東瓜破村」の集落がその上にあり、「成本(なしもと・梨本)」は瓜破台の北側に位置することに留意しておきます。

 また、右端の川状に見える帯は、天井川になった旧「東除川」の跡地で、これまた土地が高いことを示しています。


 ここで、大和川はこの「瓜破台」を横断しているわけですが、先ずは、1704年の工事の際に描かれた絵図を見ましょう。この地域の2.5kmは、「岸和田藩主」が工事を担当しました。

 異論はありますが、岸和田のだんじり祭りの起源と大和川付け替え工事はほぼ同じ時期で、時の藩主は「岡部美濃守長泰」です。

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 縦と横の縮尺は違いますが、1町(約109m)毎に土地の高さを測定したもので、Cの線が計画の川底です。その線より上にある「瓜破台」などの土地は、川底形成のために掘削が必要な所です。

 Aの線は付け替え地点の大和川の高さ。Bの赤い線が築く堤防の高さを示しています。


 これは、実施された川筋ですが、実は、この瓜破台を出来るだけ避けようとする計画が最後までありました。前述したように、瓜破台の北の「梨本(成本)の近くへ迂回しようというものです。


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 工事直前の「瓜破村北之方」を通す計画の見積書とそれを描いた絵図です。

 絵図のAがその計画、Bが実際に行われたルートです。

 正確な水準測量の結果、流し込む東除川と新川の川底の高さを合わせられなかったと考えられます。

 東除川は、Bの辺りより北部で「天井川化」が進んでいたのです。

 
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 大和川の付け替えは、その実施に至るまで6回の検分が行われました。

 その都度、川底と化したり、南からの川筋寸断される付近の村々が、迷惑を訴えました。

 1回目と3回目は、具体的な村の名は伝わっていませんが、計画川筋が大きく北寄りにそれた5回目以外、瓜破村はその訴状に参加したものと思われます。記録にある村の名は、

   ②寛文5年(1665年)  瓜破村 

   ④延宝4年(1676年)  瓜破村 西川村

   ⑥元禄16年(1703年) 東瓜破村 西瓜破村

 ここで、④の瓜破村は東瓜破村、西川村は西瓜破村を指していると思われます。


 ところで、江戸期、「瓜破村」は、「東瓜破村」と「西瓜破村」に分村しています。

 その時期は、「延宝8年(1680)年」とするのが、一般的です。

 最新の『平野区誌』もそうですし、平凡社と角川の地名辞典も共に『大阪府全志』を引用して、その年に東西2ヵ村に分村して両村が成立したと述べています。


 一方、「瓜破天神社」の由来書では、それより古く、「寛永年間(1624~43)に耕作の都合で集団移住し、西川村を形成し、…」とあります。

 これだと、上記、付け替えの迷惑の訴えに見られる「西川村」は、納得です。






 更に、「天神社」の由来書を裏付ける史料があります。


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 寛永14年(1637年)の西除川より引水する村々を描いた、「狭山池水下村々絵図」(大依羅神社蔵)です。「西瓜破村・城連寺村樋」と「西瓜破村」が描かれています。

 定説(?)より以前、寛永年間には既に分村していたことが窺われます。


 また、先の訴状や由来書のように、「西瓜破村」を「西川村」と表記する文書や絵図が見かけられます。

これは、「東除川」に近く「中樋筋」のみを用水源とする「東瓜破村」と区別して、「西除川狭山西川)」からの取水があることに由来するのでは…と考えています。



 大和川の付け替えでは、東瓜破村・西瓜破村は共に、集落は大丈夫でしたが、田地を川底として失い、領地が分断しました。今も「高野大橋」を渡った南側に「瓜破南」が存在します。

 東瓜破村の「潰れ地」は、それが発生した49ヵ村の内、最大の28町2反余・423石余に達しました。西瓜破村も、11町3反余・157石余が潰れ地となりました。


 ところで、大和川付け替えの産物の一つに「河内木綿」があります。

 一度はほとんど姿を消した「わたの花」の栽培が、近年、少しずつ復活しています。

 平野(ひらの)は、綿業の隆盛時、現在の大阪市域では唯一の綿花集荷地でした。

 「ユニチカ」の前身、「平野紡績」は明治20(1887年)の創立です。

 そうしたことから、平野区の花は「わたの花」。

 その「わたの花」を栽培し、保存・普及活動をする「区民わた畑」が「瓜破東6丁目」にあります。


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 尚、文書名の後ろに印のあるものは、拙書『於吉奈我河考(おきなががわこう)』に所収しているものを引用しました。





★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 9月29日 要旨 ☆★


● 《 広足・重信が多豆伎家に宿泊(1859) 》

 中九兵衛重信が本を読み歌を詠む壷屋「まほらの屋」で一文を記した、幕末の国学者で歌人の「中島広足(なかじま・ひろたり)」。その全集にも所収されていますが、別途「初しぐれ」という一文に、安政6年(1859)年のこの日に、玉造から奈良街道を東進して古大和川跡も経由して、喜里川村の「中西多豆伎」家を訪れ、夕方やってきた中重信も加わって酒をのみ歓談したことが記されています。