「高野大橋」シリーズの3回目。欄干の顕彰碑にある「旧高野大橋」の位置を訪ねます。
↓ A ↓ B
↑ A ↑ B
顕彰碑には、現在の橋(A)の完成直後で、旧橋(B)が撤去され未だ橋脚が残されている時期の航空写真が掲示されていて、旧橋の位置や中高野街道を踏襲する道の位置がよく分かります。
現在の地図で確認すると、下流側から、瓜破大橋(高速松原線)・高野大橋(緑の道)・旧高野大橋(ピンクの道)が、各200mほどの間隔で並んでいます。
大和川の右岸(北岸)堤防際に残る「阪和貨物線跡」の窪地。
現在の「高野大橋」際のその上から東を見ると、「白い橋」が架かっているのが見えます。
その橋が、「中高野街道」を踏襲する道にあるもので、その右手に旧橋がありました。
「高野大橋」の北詰の堤防から、そちらに向かいます。
右が右岸堤防上の道路。左手に堤防下と繋がる道がありますが、車は侵入出来ず、下から堤防上に出る一方通行となっています。
坂道を下りた突き当りに、「地蔵堂」があります。
その前に、北からの「中高野街道」が通じ、元の「高野大橋」が架かっていました。
その名残か、堤防上への階段が設けられています。
「地蔵堂」の横にある階段付近から、北の「中高野街道」を見ます。
先に見た、「阪和貨物線跡」の窪地に架かる白い橋から、振り返ります。
階段を上り、道路を渡って、大和川の対岸を見ます。
南岸にも、河川敷に下りる階段の右手に、更に向うの南に通じる道が見えます。
「高野大橋」に戻って、対岸に渡ってみます。
対岸から見た、先程の地蔵堂の辺りです。幅広い階段が、旧橋の位置の名残のように見えます。
また、先の写真にあった、こちら側の角の建物と同じに見える建物もありました。
↑ 中高野街道 ↑
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 9月16日 ☆★
● 《 第二室戸台風、阪神間を突き抜ける(1961) 》
その進路や風雨が、昭和9(1934)年の「室戸台風」級の超大型台風が、昭和38(1961)年のこの日、台風18号として近畿を直撃。台風進路の右側に当る大阪では、暴風と高潮により甚大な被害を受けました。
詳しくは当時の新聞記事も掲載した、昨年のこの日のブログをご参照下さい。