来年3月に最後の卒業生を送り出す「大阪府立大和川高等学校」(住吉区苅田4)。
来年度から、全学年が府内全域を学区とする「大阪府立教育センター附属高等学校」となります。
昨日のブログでは、学校の北側の東西道路の東の端からスタートし、正門やバス停を見ましたが、それを続けて、学校に沿う道を反時計回りに進みたいと思います。
校舎と体育館の間に「通用門」がありますが、そのプレートや部外者立入禁止の標識は、大和川高校の校名や校長名が残っています。
府下ではユニークな「ビーチバレー部」や「弓道部」などをはじめ、クラブ活動も盛んなようです。
「体育館」外壁には、優勝の実績もある「祝 近畿大会出場 弓道部」の幕が掲げられていました。
敷地は、西隣りにある「大阪府教育センター」まで続きます。
敷地の北西隅には「プール」があります。
< 北西角から見た大和川高校 >
< 北西角から西側道路を望む >
学校の西側は、プールを過ぎると、広大な「グランド」の高いフェンスが続きます。
< ブロック塀とフェンスの金網越しに見る、体育館や校舎。 >
< 南西隅から見るフェンスと南側道路 >
南側道路に出ましたが、学校敷地の半分以上を占めると思われる「グランド」の部分は、高いブロック塀に遮られて何も見えません。
グランドの東の端、北側の通用門の真南に当る位置に、南の通用門がありました。
明日に続きます。
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 9月4日 ☆★
● 《 第3代・中九兵衛重正後妻・いく、命日(1818) 》
中甚兵衛の孫である中九兵衛重正は、2人の男子をおいて妻に先立たれたことから、茨田郡点野(しめの)村の田中勘右衛門の娘「いく」を後妻として迎えました。2人は5男2女の子沢山に恵まれます。重正の男子としては、家督を継ぐ者、夭折(ようせつ)する者、他家に養子に入る者もあり、また、双子の姉妹故の秘められた事柄など、当時を窺える多くの物語が生れます。文政元年(1818年)のこの日に、「いく」は亡くなりました。