中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 再び、三度、「法楽寺」(大阪市東住吉区山坂1丁目)へ。

 南の山門ではなく、境内西側の道に面した山門の無い出入り口に向かいます。


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 ↑ < 境内西側の道
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 その前に建つ「難波大道(なにわ・だいどう)」の案内板に注目です。





 「この道は飛鳥(あすか)に通じる難波大道です。

 「難波宮(なにわのみや・京)朱雀門から真っすぐに伸びる道を朱雀大路(すざくおおじ)と呼び、

 京域を越える付近からは難波大道と名称を変え、四天王寺の東側、法楽寺の西側を通り、

 山阪神社を経て大和飛鳥に通じていました。

 「松原市と堺市の境では、道幅約18m、両端に溝がある難波大道跡が発見されています。

 

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          < 掲示案内図


 掲示案内図には、「難波宮」「難波大道」、「法楽寺」・「山阪神社」、付近の「桃ヶ池」・「長池」や「長居公園」「大和川」などが、分かりやすく色付けされています。


 実際に、この「難波大道」が発掘されたのは、掲示板にもあるように、大和川を渡って大阪市域を出たところの、「大和川今池遺跡」です。三度目の発見となり、その全貌が明確になってきた平成20(2008)年当時の新聞記事を見てみましょう。


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  < 平成20年5月21日付「産経新聞」の記事より。人が手を広げて道幅を示している。





 「難波大道」の最初の発見は、昭和55(1980)年の当遺跡の発掘調査。

 約18m間隔で並行して走る2本の溝が出土。その間は人為的に整地されていて、その中心線を伸ばすと、わが国最初の本格的な宮「難波宮」の中軸線と一致したのです。


 平成20(2008)年の3度目の発見で、発掘された延長計は約280m。東西側溝の心々幅約19mの、正に南北の大きな直線道路であったことが確認されました。

 側溝から発見された土器の形式は、7世紀中頃の第36代・孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮(なにわ・ながらとよさきのみや)」、いわゆる「前期難波宮」の時代とほぼ同じでした。


 『日本書紀』。推古天皇21年(613)年の、「難波より京(みやこ)に至るまでに大道を置く」という記述とは若干ズレますが、孝徳天皇の653年「処々の大道を修治(つく)る」には当てはまります。

 ここでいう京とは、608年からの「飛鳥小墾田宮(あすか・おはりだのみや)」で、大化元年(645年)に「難波長柄豊碕宮」に遷都しています。


 難波大道は、河内の東西幹線である「丹比道(たじひみち)」、近世の「竹内(たけのうち)街道」に達していたと見られます。


 781年に即位した第50代・桓武(かんむ)天皇は、大和の地から長岡京、そして794年には平安京へと都を遷していきますが、平城京の複都であった「難波宮」を廃止し、難波津を含めた難波潰しを行います。

 こうしたことから、恐らく平安時代の早い時期、9世紀初頭には「難波大道」も廃絶したと考えられます。


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                            ↑


 これは、昭和中期の地図に、「法楽寺」西入口前掲示板に、「この道が難波大道です。」 と言いきっている道を青色の線で示したものです。


 既に、これまでの説明でお分かりのように、「難波大道」そのものは、法楽寺から山阪神社に至るような、細くて曲がりのある道ではありませんでした。

 20m近い直線道路が廃絶したのち、人々が住みつき集落が出来て、山阪神社や法楽寺が創建された頃に新たな、小道・街道が整備されたというのが、筋でしょう。

 従って、古代の「難波大道」が通っていた辺りを今も通っている、中世以降に造られた道というのが、正確な表現と思われます。





 実は、現在の山坂・南田辺地区の住宅街には、かなり先まで見通せる直線道路で、幅はないものの、「これこそ難波大道跡」と呼べる道があります。


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 「山阪神社」南東角から南西に伸びる道から分岐して、真南に向かう道路です。

 「山坂郵便局」のある「南港通」を越え、「長居公園」に至ります。

 途中、西側には「南田辺小学校」、「田辺中学校」が道沿いにあり、「田辺中グランド」が東側に面しています。南港通の北では、山坂3と南田辺1、南では、南田辺2・4と同3・5丁目を区切っています。


 長居公園に突き当ると、ここに数少ない北側からの入口があります。

 しかも、以前の公園内は、この延長線が「東長居町」(旧・堀村)と「鷹合町」(旧・鷹合村)の境界を形成していたのです。

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 この入口から振り返って、北を見てみましょう。


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< 200ミリレンズで、突き当りのような山阪神社前からの斜めの道が見えました。 >


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 「長居公園通」の南側から大和川までは「住吉区と東住吉区」の、大和川を渡ると、「堺市と松原市」の境界を形成しています。

 東住吉区に残る「難波大道」の痕跡を、道路や町の境界線で辿ってみました。


 「禁止看板」が乱立して景観を壊している「長居公園」。

 近代の道とはいえ、直線道路を形成している北の入口辺りにでも、法楽寺横の「難波大道」の案内板のようなものを建てては、どうでしょう。

 歴史的にも魅力のある場所であることを知らしめることで、マナー向上を図ることも必要なのでは。「あれはいけない」「これもいけない」だけでなく・・・・。






★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 8月19日 要旨 ☆★


● 《 大雨で大和川膨張、赤井堤崩壊(1649) 》
 『徳川実記』に、慶安2年(1649年)のこの日から21日まで大雨が降り、大和川が膨張、河内の赤井堤が崩れ、広大な田畑が被害を被ったとあります。江戸期、現在の寝屋川市と枚方市の間に淀川に流入していた「赤井川」の堤があったことは知られていますが、大和川の支流とは言えず該当しないと考えられます。大和川の赤井堤は詳らかではありませんが、深野池と新開池を結ぶ「深野川」の北岸の氷野・赤川村辺りの堤と見ることが出来ます。寝屋川・恩智川・吉田川などが合流していた付近です。