中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 今月のテーマの一つ、大阪市東住吉区の田辺地区の探索。

 6回目の今日は、終戦の日を前に、模擬原爆が投下された跡地の碑を訪ねます。

 東住吉区田辺1丁目。最寄駅は「地下鉄谷町線・田辺駅」です。


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 「田辺駅前」から、「阪神高速松原線」の高架が斜めに跨いでいる、写真右側の「長居公園東筋」(大阪狭山線)を、少し南(写真手前)に下ります。




 一つ目の信号の少し手前を右に折れますが、こちらからはビルの陰になって通り過ぎてしまいそうです。目印は左手・対面に見えてくる白い建物。「大阪市立田辺小学校」の手前です。


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 ここの右手ですが、通り過ぎて振り返ってみます。


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 昭和20(1945)年、たった1機のB29が通常より高い高度で大阪上空に飛来し、田辺に1トン爆弾と思われる爆弾を投下した後、これまた通常とは違い急に進路を曲げ、飛び去りました。

 しかし、被害は意外に大きく、死者7・重軽傷者73人、倒壊家屋485戸、被災者1,645人。


 これが、11日後に広島、14日後に長崎に投下された本物の原子爆弾の模擬爆弾によるものであったことは、昭和の時代が終わっても、全く分かりませんでした。


 平成3(1991)年11月、機密扱いが解除になった米軍の資料を、愛知県の「春日井の戦争を記録する会」が国会図書館で閲覧、日本各地50ヵ所をターゲットに1万ポンド(5トン)爆弾で原爆投下訓練をしていたことを突き止め、その内の一つが7月26日に、大阪市街地に投下されたことが分かりました。

 大きさと重さを真似、B29が、投下後に爆発に巻き込まれないようにする離脱訓練だったのです。

 その後の各種調査から、この田辺地区が特定されたました。


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 模擬原爆投下による犠牲者のご遺族の一人が、平成13(2001)年に建てられた「模擬原子爆弾投下跡地」の碑の傍らには、関連資料が掲示されています。


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 伝えなければならない原爆の悲劇、むごさ。そして、戦争の愚かさ風化させない想いから、7月26日の投下時間9時26分に合わせ、犠牲者を偲ぶ追悼の集いが、今年も行なわれました。

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        < 平成24(2012)年7月27日付「産経新聞」の記事から







★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 8月14日 要旨 ☆★


● 《 中九兵衛重信・河澄常房の龍谷山詣で歌日記(1862) 》

 文久2年(1862年)閏8月のこの日から、甚兵衛から数えて5代目の「中九兵衛重信」と、甥の「河澄作兵衛常房」は、京都東山の西大谷墓地や東西の本願寺に参るべく旅立ちました。重信は、その7月28日に世継ぎの甚太郎を18才で失い、常房も5月に母(重信の実姉)を失くしていました。この日は朝早く、河内の今米から徳庵へ歩き、大坂・八軒家までは寝屋川を小舟で向かって、三十石船に乗換え淀川を上って夕刻には京都伏見に到着。伏見街道を北上して五条で宿泊しました。翌日に詣でて、夕方にはまた夜船で帰路に就く2泊3日の旅ですが、2人は、悲しい胸の内を歌に託して、日記を残しています。