中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 8月1・2日の『この日・何の日』に採りあげたように、「昭和57(1982)年8月」のスタートは豪雨が続き、大和川流域では、遂にこの日、その被害がピークに達しました。


 1日から2日にかけての、「台風10号」による大雨に続き、2日夜から3日にかけての「台風9号崩れの低気圧」が急襲、その「追い打ち豪雨」によって、大きな打撃を受けたのです。

 1日夜と3日朝には、戦後初と2番目になる「大和川洪水警報」が相次いで発令されました。

 当時の新聞スクラップ(朝日新聞)から、その被害の一端を拾ってみます。


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 1日、奈良県の大和川とその支流が集結する付近の、当時の国鉄関西本線「王寺駅」では、駅構内に止めていた100両が水没しました。

 2日には一旦水が引き、構内のポイント33ヵ所を取り換えるなど復旧に務めましたが、この日再び水没。101系の60両は完全廃車に、123系40両もそれをせざるを得ない恐れが強くなりました。

 復旧用のポイントも底をつき、代替車両やポイントの工面に、隣接各線や首都圏の応援を求めるという、国鉄では経験したことのない異例の事態におち込みました。

 「東京三鷹や千葉の電車区からは、古い101系が急遽転属してきました。」(ブロガー・山ちゃんの当ブログ・6月17日の記事へのコメントより)




  

  「台風9号崩れの低気圧」は、潮岬のはるか沖合に抜けるはずとして、3日は晴れるという予報でした。ところが、昨日の『この日何の日』で述べたように、2日の夜から豪雨となりました。

 大和川は至る所で、堤防すれすれまで水位が上昇し、沿岸一帯に洪水警報が出ました。

 奈良県内の支流では堤防が決壊、大阪でも「西除川」の下流部で氾濫。

 大和川以外でも、和歌山の「紀ノ川」などが警戒水位を突破して、被害もでました。


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 2大都市、大阪と堺を結ぶ交通は、ほぼ途絶。

 大和川を渡る、「国鉄阪和線」・「南海本線」・「南海高野線」などの鉄道路線や、幹線道路の「国道26号」(大和川大橋)」も全面ストップしました。

 当時、岸和田にお住まいだった、前述の山ちゃんは、「唯一、阪神高速だけは通れました」とコメントされています。

 

 当然、上流の河内地区の「近鉄南大阪線」・「近鉄道明寺線」の鉄道も含め、全ての一般道路の、「吾彦大橋」・「遠里小野橋」・「国豊橋」なども通行止めとなり、大和川を挟んだ北と南の地区が分断され、ほとんど行き来が出来なくなりました。



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 大阪の洪水警報は、この日中には解除されず、小学校などに避難した人たちは、前夜に続いて眠れぬ夜を過ごしました。


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     < 大和川(手前)の堤防上で警戒に当る消防車など。午前9時、堺市内。


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  < 夜になっても水が引かず、ゴムボートで食物・衣類を運ぶ人たち(午後9時・松原市天美北


 ここまでの新聞記事は、「朝日新聞」の3日付夕刊に依るものです。


 近畿管区警察局が調べた、4日午前1時現在の大阪・奈良・和歌山の3府県の被害状況は、「死者3・行方不明1人。」「家屋の全半壊42・床上浸水15,500余・床下浸水43,000戸。」「堤防決壊6・橋梁流失6・がけ崩れ279・道路損傷64ヵ所」に及びました。


 この時の豪雨被害、特に大和川支流「西除川(にしよけがわ)」下流部の、松原・堺市域での氾濫被害は、当時の建設省(現・国土交通省)の「激甚災害対策緊急事業」の指定を受け、大和川に新しい洪水対策が求められました。

 昭和60(1985)年6月17日に通水式を迎えた「西除川捷水路(しょうすいろ)」は、この事業の一環です。




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                 < 「朝日新聞」 8月4日付朝刊から


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一級河川大和川下流「激特事業完成記念の碑(昭和63年6月)





★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 8月3日 要旨 ☆★


● 《 追い打ち豪雨で大和川増水被害(1982) 》
 上記の通りです。