大阪市東住吉区針中野の1~4丁目の分岐点「5叉路」(小○)から、「はりみち」に入ります。
環濠集落の中井神社・佛願寺や地蔵堂前を通る「庚申街道」(↓↑)の延長です。
少し進むと右手に分岐点があります。写真の左が「庚申街道」で、手前に戻り進めば「でんしゃのりば」、右への道が「中野鍼灸院」への「はりみち」です。
5叉路にあったと同じ、大正3(1914)年4月建立の道標が建っています。
先のものは、やや土地の高い旧環濠内との高さ合わせで、道標の下の文字が埋もれてしまっていましたが、こちらは「はりみち」「でんしゃのりば」が最後まで読み取れます。
庚申街道の左手には、少し大きな「地蔵堂」が北を向いて建っています。
地蔵堂の裏側に、「中野鍼灸院」の駐車場スペースがあります。
「中野鍼灸院」は、先程の道標の角を曲がりますが、この地蔵堂と庚申街道を挟んで続く土塀の南側に回ってみます。
土塀に続き、蔵のようなものが見えます。
立派な門が見えてきました。「門長屋」と呼ぶべきものでしょうか。
「なかのはり」と共に「中野」の表札が掲げられています。
どうやら、この一角全てが、「中野鍼」を営む「中野邸」のようです。
明日は、北側の「中野鍼灸院」の方に回ります。
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 7月29日 ☆★
● 《 歌人・大隈言道、忌日(1868) 》
中甚兵衛から数えて5代目の中九兵衛重信。1862年に京都西大谷への2泊(1泊は帰路の淀川船中泊)3日の墓参りの歌日記を綴っていますが、その最後に世継ぎの長男を失った悲しみの歌7首を追加しています。この全編を添削、所々に朱筆を入れ短評を書いている人が、やはり世継ぎの孫を失った悲しみから、重信を案じる言葉を書き添えています。福岡生まれの江戸時代末期の歌人で、60歳になって大阪に出て来た大隈言道(おおくまことみち)です。慶応4年(1868)のこの日、71歳の生涯を終えました。