中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 昨日、古地図で確認した、近世の「住吉郡中野村」、近代の「住吉郡南百済村大字中野」の集落があった場所を探索します。

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 昨日のブログの最後で見た、現在の「針中野」の町の境界線が交わる地点(地図の小さなの個所)が、旧「環濠集落」の南東角に当ります。

 北からは「地下鉄谷町線」の「駒川中野駅」南の「南港通」から、南からは「近鉄大阪線」の「針中野駅」南を東西に走る道路から入ることが出来ますが、先ずは離れた位置からも「中井神社」の木々が見える南からの道から向かってみます。針中野駅南から2つ目の信号のある所です。

 しばらく進むと、冒頭写真のように、突き当りに見える住宅の向うに高い木々が見えてきます。





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 突き当りをやや左に入った辺りで、5本の道が交わります。

 写真左手からポストの前を通りその方向に進む道(地図緑色)が「庚申街道」です。

 ポストの傍らに何やら高さの低い石柱が立っているようなので近づいて見ます。

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 大正3(1914)年4月に建立された「道標」です。この年、「南海平野線」が開通しました。

 文字の一番下が埋もれてしまっていますが、ここから北へ進めば「でんしゃのり)」があり、南(南西方向)は「なかのはり」に至る「はりみ)」であることを示しています。

 庚申街道と東西の道路が交わる所、多くの人が行き交う交通の要所であったのでしょう。





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          < ① 庚申街道がやや西寄りに向きを変える「はりみち」

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   < ② 北へ向かう庚申街道。中井神社前を通って「中野駅」へと出ます。


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 < ③ 上の写真のポスト横から西へ向かう道路。環濠に沿っていたとみられます。


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              < ④ 道標のある所から東に通じる道路


 以上の①~④の道は古くからの道筋を踏襲しており、現在は更に南からの直線道路を加えて、ここが五叉路となっています。





    ↓南海平野線   ↓なかの駅
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 五差路から庚申街道を北へ進むと、右手(東側=針中野2丁目)側に産土神や2寺院などがあることは、既に見ましたが、左手(西側=針中野1丁目)に入るいくつかの道のひとつの角に「地蔵尊」が祀られています。


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      < 左手にある「地蔵堂」。右手奥に中井神社の森が見えます。


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 右手の住居の隙間から、大きなクスノキが見えます。

 どうやら位置的に、旧集落の北東端に当るようですが、のちに確かめます。

 「なかの駅」があった、現在の阪神高速松原線と南港通は、もうすぐ近くです。


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★☆ 《大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』》 7月26日 ☆★


● 《 東川中家、長男を養子に出し家廃絶(1876) 》

 1704年の大和川付け替え後の新田開発のために、甚兵衛娘婿の大坂菊屋町・河内屋五郎平は居を移しました。甚兵衛嫡子の中九兵衛と共に開発した吉田川筋新田が、検地の始まりに「川中新田」と名付けられ、その「川中新田会所」を住居としたのです。1834年以降は、庄屋2人制となった今米村の庄屋を代々の中九兵衛と共に務めることもありました。次第に地名から「川中」姓を名乗るようになり、既に1760年頃に今米村に分家した家との区別のために、その位置から「東川中家」とも呼ばれました。この川中本家は7代続きましたが、明治10(1876)年のこの日に、長男を養子に出した旨を届け出て、家を廃絶することになりました。