中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記

                < 北田辺の阪和線高架下から見る夕景


 「JR阪和線」の「南田辺駅」から「美章園駅」へ、南から高架沿いを辿るスケッチの2回目です。

 先ず、少し昨日とダブりますが、近年開通した新高架沿いに、地上を走っていた「旧線路跡」が残る最北端は、「松虫通」です。


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 「松虫通」を南から北に渡ると、東側の細い通りに張り出した元々の高架の位置が確認でき、そこから新高架はやや西寄りにルートを変えていることが分かります。

 ここでの東側の細い道との空間はまだ僅か。駐車場として利用されています。

 「松虫通」を渡った所で、振り返ってみます。


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 東側の細いと道路と、阪和線高架の間に、旧線路跡の空き地が続いています。

 それを跨いでいる高架は、「阪神高速松原線」です。




 さて、再び、阪和線東側の細い道路を北に進みます。

 その東側にある「大阪市立北田辺小学校」を過ぎた辺りから、元々の阪和線高架が始まります。


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 この高架下については先ず、鉄道と大阪の近代史に造詣が深い、ブロガー「大阪 堺・松原の看板屋 山ちゃん」から、これまでに頂いたコメントを引用しましょう。

 「(天王寺から)美章園南方までの高架は、長崎県端島(軍艦島)にある日本最古のコンクリート団地 に次ぐ、近代建築の遺産であるだけでなく、創業当時のこの高架下の住居には、若かりし蝶々夫妻も住んでおられたことは有名です。


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 高架と一体化した、下町情緒があふれる住宅や商店が軒を連ねています。

 終戦後の一時の仮住まい、いわゆる「バラック街」が、そのスタートでした。

 闇(やみ)取引も行なわれていたとか・・・今は、下町として人々に親しまれています。

 物件の家主は「JR西日本」で、商店・住宅として貸し出されています。


 先のコメントにもあったように、古き昭和のラジオ番組「夫婦善哉」の名司会ぶりなどで親しまれた、漫才コンビ「ミヤコ蝶々・南都雄二」の生活も、三畳二間ならぬこのガード下の四畳半と二畳の住宅がスタートだったと言われています。





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 「美章園駅」が近づくと道の両側に、飲食店が増えてきます。


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 「美章園駅前」です。赤い鉄製は、阪和線のガードの高さ制限の表示と防御のためのものです。


 正面の石垣状の盛り土の上に、阪和線の和歌山方面行きのホームが見えます。

 これについても、昨日、「山ちゃん」からコメントをいただいています。

 「美章園駅構内の一部は高架ではなく、盛り土になっています。これは1945年2月14日夜間の大阪空襲によって、1トン爆弾が直撃したためで、敷地内には後年にできた供養碑があります。





 美章園駅とその北側については、稿を改めるつもりでしたが、駅の東まで足を延ばします。


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 駅の東側を少し北に入った所に、小さな「美章園稲荷神社」の鳥居や祠などがあります。

 その傍らに、昭和26(1951)年8月24日に「国鉄美章園駅職員一同」が建立した「遭難供養の碑」がひっそりとたたずんでいます。

 終戦の年2月、30名ほどの死傷者が出たと伝わっています。


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 駅前に戻り、ガードの西側に出ます。

 正面上部に阪和線の天王寺方面へのホームが見えます。

 手前右は、先程までとは表裏の関係にある、西側を正面とするガード下の建物です。


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 従来からの阪和線ガード下は西側にも住宅・商店があり、道を挟んで空き地が続いています。
 これは、阪和線の高架化と共に計画された「阪神高速大阪泉北線」の名残です。


 阪神高速道路公団と大阪市が、昭和58(1983)年度から用地の買収のとりかかり、阪和線の高架化事業と一体的に整備して、3階建て構造にすることで着工されました。

 この場所は、その出入り口が予定されていた場所です。

 阪神高速と鉄道・道路との3階建て構造は、「阪神高速東大阪線」の一部にみられますが、阪神淡路大震災の高架橋倒壊で、その耐震性に住民の不安が増え、平成15(2003)年に建設計画自体が廃止されました。着工済みで建設中止は全国で初めてです。

 阪和線の高架化は、平成18(2006)年に完成しました。


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         < 従来からの高架とその先の新設高架が見渡せる




★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 7月19日 要旨 ☆★


● 《 初瀬川沿いの大災害で海柘榴市の人家流失(926) 》

 遣隋使・小野妹子の帰国に同行して、裴世清(はいせいせい)が来日しました。難波から大和川などを利用して飛鳥の宮に入る際、日本側が迎えた地が「海柘榴市(つばいち)」です。926年のこの日、長谷寺山が崩壊し土石流が発生して、初瀬川下流の海柘榴市の人家がことごとく流失したとの記録があります。その前後の位置について、栗殿(おうどの)・金谷(かなや)・慈恩寺(じおんじ)付近など、諸説があります。