中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 「きょう16日(月曜日)は祝日(海の日)ですので、夕刊は休ませていただきます。」… 朝刊各紙は異口同音に、月曜日だけど夕刊のないことを告知しています。

 では、「海の日」って一体何の日?… 目を通したいくつかの新聞は、何ひとつ触れていません。


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 法律が定める「海の日」とは、「海の恩恵に感謝すると共に、海洋国日本の繁栄を願う日」。

 今から約15年前の平成8(1996)年、それまで「海の記念日」とされていた「7月20日」を「祝日」としたものです。明治9(1876)年に明治天皇が東北巡幸された際に、軍艦ではない燈台巡視船「明治丸」を利用され、7月20日に横浜港に帰港されたことに因んでいます。


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 では、そもそも「祝日」とは・・・。少し固い話になりますが、昭和23(1948)年に制定された「国民の祝日に関する法律」の第一条に、「祝日とは、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、国民こぞって祝い、感謝し、または記念する日」とあります。


 このように、伝統ある行事や、未来に伝えたい記念すべき事があった特別の日に因んで定めるものですから、元々日にちに変動があって、国立天文台の発表に従う「春分・秋分の日」以外は、毎年、何月何日と決めておかなければ意味がありません。元来はそうだったのですが・・・。

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 ところが、平成15(2003)年、祝日に関する法律の一部が改正され、新設された「ハッピーマンデー制度」が適用され、「海の日は、7月の第3月曜日」となったのです。
 従って、海の日は7月15~21日のいずれかの日となって、毎年、変動するようになりました。


 戦後の高度成長期を終えて、徐々に土曜日も休む「週休2日制」が定着したことから、更にそれを広げて年に数回、月曜日を加えた「3連休」を設け、国民に余暇を楽しんでもらおうと言うわけです。

 しかし一方で、7日間のいずれかの日となると、単なる休日で、一体何の祝日?ともなりかねません。

 冒頭の新聞云々にも問題があると思いますが、国にも国民に休日の意味を周知する策を講じる責任があるのではないでしょうか。


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 「海の恩恵」の一つに、日本人には欠かせない「漁場」としての海の利用です。

 特に近海漁場で必要不可欠なのが、魚・貝の餌になるプランクトンや、海藻を育てる栄養素。

 それらは、「山」から「川」が運んでくるのです。

 川の上流部で降った雨水が、山間部の腐植土に一旦蓄えられたものです。

 「豊かな森が豊かな海を育んでいる」ことを忘れてはならないでしょう。


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 大和盆地の周囲の山々からの水を集めて大阪に入ってきている「大和川」も、それが流れ込む大阪湾の漁場と大きな繋がりがあります。

 しかし、その源の「奈良県」には海がありません。

 そこで県では、この「海の日」を条例で、「奈良県 山の日・川の日」と定めています。

 「身近な自然の山と川を歴史・文化の源として捉え・育み、次世代に引き継ぐ」ためです。


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 ただ、残念なのは、条例の内容が、あくまで「山と川の果たす役割の重要性、それがもたらす恩恵や様々な魅力・・・」に、その日の意義を求めているにとどまっていることで、海がないからの理由で、「海」を「山・川」に置き換えたにすぎない感が拭えません。


 ここは、前述のような「海」との関連にまで言及し、「海」には面してなく馴染はなくとも、身近な「山・川」とともに、深い繋がりがある「海」にも想いを馳せる日、少なくとも「間接的に海を想う日」としてほしかったと思います。


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                     < 大和川河口近く


 海に囲まれた狭い国土の日本にとって、「海・川・山(森)」は、緊密な関係にあり、一つの生態系を成していると考えられます。

 「豊かな森が豊かな海を育む…」、「林業と漁業は密接な関係がある…」、「それを繋ぐのが川…」。

 「海の日」に、その一面として、こんなことを想うのも無駄ではないでしょう。





★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 7月16日 要旨 ☆★


● 《 阿麻美許曽神社、夏祭り 》
 江戸期の丹北郡枯木(かれき)村。1670年頃、論争で北枯木村・南枯木村に分村しました。更に1704年の大和川付け替えで、位置的にも大和川の北と南に分かれました。その南側に残ったのが「阿麻美許曽(あまみこそ)神社」。今も、大和川の南ですが、住所は大阪市東住吉区矢田7丁目になります。奈良期の高僧・行基ゆかりの地としても知られます。江戸期の地図では「阿麻岐志宮(あまぎしのみや)」や「天岸明神(あまぎしみょうじん)」とも記されていて、枯木村のほか、河北の矢田部村・住道村、河南の池内村・城連寺村・油上村・芝村の産土神(うぶすながみ)・氏神として知られています。当社は、この日から2日間が「夏祭」です。