中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 大阪市平野(ひらの)区の「長吉川辺」の南端で、大和川の南に位置する「府立平野高校」。

 前3回でその外周を見、昨日の最後は北東部に接する「大堀グラウンド」に出ました。

 そのまま進むと、自動車道「大堀堺線」に正門のある「恵我(えが)小学校」はすぐ近くです。


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 「松原市大堀3丁目」にある「市立恵我小学校」は、明治7(1874)年に「大堀小」として創立。

 明治22(1889)年に「恵我村」が発足して以来、「恵我」を関する名称となりました。

 現在地に移転したのは、明治41(1908)年のことです。昭和9(1934)年の「室戸台風」、昭和36(1961)年の「第二室戸台風」で校舎倒壊の被害を受けています。



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 「大堀堺線」にある「恵我小学校バス停」です。

 大阪市営地下鉄「谷町線・出戸駅」からの「大阪市営バス」、近鉄の「南大阪線・河内天美駅」からの「近鉄バス」と、「松阪市循環バス」の「ぐるりん号」が停まります。


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 恵我小学校とバス停に隣接して、大きな石碑、「忠魂碑(ちゅうこんひ)」が建っています。

 裏面に「昭和12(1937)年12月建立」とありますので、その年に勃発した「日中戦争」で忠義を尽くして無くなった人々の魂が祀られているのでしょうか。

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 「平野高校」の西は「松原市別所」、学校の外周道路に繋がるもう一本西側の道からも、この「大堀堺線」に出ることが出来ます。信号を渡ったすぐ左に、大和川に架かる「明治橋」に通じる道があります。

その角近くに「地蔵尊」が祀られています。


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 学校北の「大阪市平野区長吉川辺4丁目」を通って、明治橋に向かいます。


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        < 大堀堺線から平野高校正門に通じる道


 「大堀堺線」の北側は、大和川の手前まで閑静な住宅街が続きます。

 「大阪市住宅供給公社」の「平野(ひらの)菜の花の里」という一角があります。


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              < 毎年大輪のアジサイを咲かせるお宅も… >


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            < 川辺の地名を名称とするマンションも…


 


 道路の北端近くに大阪市バスの「長吉川辺(ながよしかわなべ)4丁目バス停」があります。

 次の停留所は大和川の北側です。


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 上に「阪神高速松原線」が走る「住吉八尾線」から、平野高校に通じる道、住宅街を振り返ります。


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 以前は、この長吉川辺4丁目に住む児童も、先の「松原市立恵我小学校」に通えましたが、昭和54(1979)年4月、大和川対岸の「長吉川辺1丁目」に「大阪市立川辺(かわなべ)小学校」が開校したことから、恵我小学校の校区から外されました。

 この先(写真右手)に架かる「明治橋」を渡って登校します。




★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 6月7日 要旨 ☆★


● 《 蘇我馬子が穴穂部皇子を討ち、物部氏滅亡に動く(587) 》
 6世紀前半に正式に伝来した仏教。仏像にt関して崇仏と廃仏の立場をとって鋭く対立した、蘇我氏と物部氏の政治的権力争いは、天皇の継承争いで頂点に達しました。蘇我氏が推した「第31代・用明天皇」の没後、物部守屋が天皇に立てようと画策した「穴穂部皇子(あなほべのみこ)」を、587年のこの日、蘇我馬子は指図して暗殺。更に、馬子は大軍を派遣して物部氏を滅亡。以後、蘇我氏は朝廷における政権を独占しました。馬子は、その専横を嫌うようになった天皇も暗殺。592年に即位した女帝「第33代・推古天皇」の摂政として聖徳太子(厩戸皇子)を擁立、仏教を広めていきます。