中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 大阪市阿倍野区にある、JR阪和線「鶴ケ丘駅」。

 こだわるようですが、「TSURUGAOKAつるがおか)」の表示。ホームは「」ですが、昨日のブログで見ていただいたように、駅舎外壁は「」です。


 その東口前にあった旧線路や旧駅舎・自転車置き場の跡地は、現在フェンスで囲まれています。

 「風かおるみち」をキャッチフレーズにした、延長約5.5kmの緑道「天王寺大和川線」の完成予定は、今のところ5年後の平成29(2017)年度です。


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              < 旧駅舎等の跡地と旧来からの街並み

 

 右の写真の様に、JR線に沿った道路が、ここから東に、何本かあります。>
 この駅東側は、「東住吉区山坂5丁目」の西部。町会は「山五西」です。


 「山坂(やまさか)」は、昭和4(1929)年から昭和55・56(1980・81)年頃までと言いますから、昭和のほとんどは「山坂町(やまさかちょう)」でしたので、今でも「町」を付けられる方もおられます。


 ルーツは、阿倍野区西田辺町の「猿山新田」と同時期に、南田辺村の人が開発した「松原新田」。

 以後、「松原」や「松原町」と呼ばれる時期があり、「松原住宅」の名が今も知られています。


 「」の地名は、北部の2丁目にある「神社」に由来しますが、字が違います。

 地名と神社名は、お互いにそれに由来して名付ける場合、一字だけ替えることがあるそうです。



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  < 駅前から南側を望むと、キンチョウスタジアムの照明塔が見える。


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   < 高架下、南口近くの駅前から東を望むと、商店街が見える。


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 マンション化、住宅化で、かなりの店舗が姿を消しましたが、このところまた徐々に新しい店舗も増え、再生・復活を目指している「鶴ヶ丘商店街」です。

 長居公園北口にも通じることから、本来は、「SYOPPING STREET パークタウン鶴」。


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 現在は、この通りに繋がる道を含めて、もう一つの愛称があります。

 名付けて、「Cerezo セレッソ大阪 応援通り」。


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 通りを東へ進んで行きます。

 歩道部分の舗装、現在はくすんでいますが、当初は鮮やかなピンク色でした。


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          < 本通り 1 >                   < 直交する道路 1

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          < 本通り 2 >                    < 直交する道路 2



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         < 本通り 3 >                   < 突き当りから北を望む


 この突き当り、昔はその近くに公設市場がありました。

 その道路まで、初めの方の写真説明にもあるように、JR線に沿っています。

 が道路が出来た時にはJR線がなく、正確には元々あった「長池」に沿っているのです。
 「長池」は上町台地と我孫子丘陵の狭間。江戸期に、この辺りのその東側を開発したのが「松原新田」、西側を開発したのが「猿山新田」というわけです。

 緩やかな上り坂の本通りが突き当った所を右折すると、「キンチョウスタジアム」と「長居スタジアム」が目の前にある、「長居公園北口」がすぐ近くです。


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              < 長居公園北口から見る「パークタウン鶴ヶ丘」



★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 5月29日 要旨 ☆★


● 《 歌人・与謝野晶子、忌日(1942) 》

 22歳で上京するまで堺で暮らした、明治~昭和初期の代表的な女流歌人「与謝野晶子」は、昭和17(1942)年のこの日、64歳の生涯を閉じました。法名=白桜院(はきおういん)。当時の住職が鉄幹との仲をとりもったのが縁とされる堺の「覚応寺」で、その偉業を偲ぶ「白桜忌」が催されます。大和川を詠った「沙(すな)白き新大和川 わが町に堺乙女の清かれと添う」の歌碑建立の運動が起きています。