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 大阪市阿倍野区の西田辺駅界隈で催される「西田辺まちバル」。

 大阪市営地下鉄御堂筋線「西田辺駅」は、この駅前交差点の四つの角近くにあります。

 横断歩道際にある、南東側②番と南西側④番出入口の所在地は、共に「西田辺町1丁目」。

 横断歩道より少し離れた、北東側①番は「昭和町5丁目」、北西側③番は、「阪南町5丁目」です。
 
 昭和町と阪南町は、「西田辺駅」の一つ天王寺寄りの「昭和町駅」より北から繋がっている細長い町です。「あびこ筋」の東側の「昭和町」は、「南港通」までですが、西側の「阪南町」は、それを越え6・7丁目があり、西田辺町1・2丁目に接しています。


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     < 昭和42(1967)年 >                < 平成23(2011)年


 昨日までの旧「猿山新田」は、便宜上、昭和58(1983)年発行当時までを記す、『角川日本地名大辞典・大阪府』などの記載に倣い、現在の「西田辺町1・2丁目」に相当すると述べてきましたが、実際は飛び地などもあって、もっと複雑なようです。

 昭和61(1986)年発行で、主に古い地名に重点を置く、『平凡社日本歴史地名大系・大阪府の地名」における江戸期の「猿山新田村」は、現在の「阿倍野区西田辺町1~2丁目阪南町6~7丁目長池町など」としています。


 「猿山新田」開発者の奥田家の西側は、地元が呼ぶ「庚申街道」に接していましたが、その西が「阪南町6丁目」。5月11日に見た明治・大正の地図に、そこに相当する新田集落の西側に、大きな溜め池が認められます。

          中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記 < 明治期 >


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          ①   ②   ③  ④

  ①(ピンク色)=溜め池跡?  ②=庚申街道  ③=旧猿山新田表通り  ④=あびこ筋


 庚申街道沿いのが、「奥田邸のクスノキ」です。

 「クスのキのうた」と題する、猿山新田開拓者の子孫でシャンソン歌手・奥田真祐美さんの文章を紹介した新聞記事があります。

 「開墾だけでなく、防風と美観のために森をつくったそうです。猿山の森の名残でしょうか、本家に1本、分家の我が家に1本、大阪市の保存樹に指定されているクスノキの巨木があります。私が長池小学校に通っていた頃は、森の奥田さんと呼ばれ、高層ビルがなかった時代には、クスノキが町の目印になっていました。
 「庚申街道を挟んで私の家の前には、大きな池がありました。昭和27(1952)年に地下鉄御堂筋線が西田辺まで開通。その時に掘った土で池を埋め立てて、今では住宅が建ち並んでいます。わずかな樹木でさえ切られてマンションなどに変貌してしまう現在、せめてクスノキを守っていきたい、歌い手として自然の恵み・生命の尊さを思い作った《クスノキのうた》を詠いつづけていきたいと思います。


 分家の「奥田邸(西田辺町1-20-34)のクスノキ」は、高さ13m、幹周3.3mで、平成20(2008)年7月20に「大阪市保存樹」に指定されています。


 ところで、明治期の地図には、この猿山新田の集落と溜め池の北側に、東方の山阪神社南側から通じる道が描かれて、この辺りでは隣接する村(安倍野村、のちの天王寺村)との境界を成しています。

 現在は、南港通の北・シャープ㈱の西側で途切れている道。その後の進み方を推定する時、西田辺駅南東側で大きく曲がっている道も気になりますが、その一番北側の道、南港通から少し斜めに入りあびこ筋に出る道とすれば、あびこ筋を渡った南西側の銀行の裏通りに繋がります。


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 その道が「庚申街道」に出た個所から、振り返った写真。

 住所表示を見ると、通りの左(北)側が「阪南町5丁目」、右(南)側が「西田辺町1丁目」。

 左手間もなくの所に、南港通の交差点「阪南町東5」があり、それより北は「阪南町5丁目」。

 撮影場所を振り返ると、「阪南町6丁目」でした。

 阪南町5丁目と、西田辺1丁目および阪南町5丁目との境界が、広い「南港通」ではなく、それからわずか南の細い道に引かれていることからみても、歴史的にかなり重要な意味をもった道であったことが窺えます。上記の、猿山新田の集落と溜め池の北側を通っていた道を、踏襲しているものと見て、差しつかえないものと見られます。


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★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 5月16日 ☆★


● 《 中新田最後の砦・東寺嶋、鴻池屋に譲渡(1777) 》

 大和川付け替え後の新開池新田として「鴻池新田」が有名ですが、一部、「中新田」と言うのがありました。「中九兵衛」と「河内屋五郎平」の開発です。鴻池屋から借りた地代金の返済が難しく、開発わずか3年か鴻池屋への分割譲渡を繰り返しましたが、甚兵衛乗久の遺言で「東寺嶋は全て隠居地とし、たとえ如何なることがあっても、分割せずわずかなりとも手放さないこと」と諭されていた土地も、1777年のこの日に手放し、およそ70年間で全て鴻池屋の掌中に帰しました。