中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 八尾市植松町(うえまつちょう)。

 「植松」の地名は、南北朝の時代から河内国渋川郡に見え、江戸~明治中期には「植松村」がありました。

 現在の町域は、「JR八尾駅辺りを頂点とした三角形のような形で1~8丁目があり、もとの植松のほか、安中など周辺の町の一部が含まれています。


 冒頭の図は、植松町とその周辺ですが、町内だけ地図に記されている細い道路も表しています。

 その中でも、八尾駅を南下する線辺りで、主な道路の向きが変っているのが分かります。

 付け替え前の大和川(久宝寺川)の流れも入れてみましょう。


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 大まかですが、水色が「久宝寺川」の流れで、この辺りは後の「安中新田」です。

 「長瀬川」が用水路として、その中央に残されました。


 植松町の道路。

 先ず、1~3丁目。右下から進むと、「渋川神社」の辺りまで、まだ久宝寺川の流れに沿った感じです。
 が、その辺りから急に、ほとんどの道が左下・南西の方向に向きを変え、「太子堂」の方に向かっています。4~8丁目がそれです。

 「久宝寺川」は、ちょうど「JR八尾駅」辺りから流れを北向きに変えていましたが、この道路の向きにも過去には大きな川が分岐して流れていたんでは…と読み取ることが出来ます。


 これが、「奈良時代の大和川の本流」、のちに言う「平野川(ひらのがわ)」です。

 当時は、「河内川」や、「渋川」などと呼ばれていたものと思われます。

 「河内国渋川郡」は、久宝寺川とこの川に挟まれていました。


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 上図の○で囲んだ点線がその流れです。9世紀に切り離されるまで存在しました。

 この川沿いに「渋川路(しぶかわのみち)」が整備され、「聖武天皇」らも難波宮と平城京を行き来しました。

 788年、「和気清麻呂(わけのきよまろ)」が、上町台地を掘削して海に落とそうとしたのもこの流れです。

 

 南北朝・室町の時代になって「植松」の地名が現れたとすれば、この流れが止められた川跡やその氾濫原に人が住みついたのでしょう。周辺より土地が高かったと考えられます。



★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 5月9日 要旨 ☆★


● 《 新開池新田地代金納入者に権利譲渡文書(1705) 》

 宝永2年(1705年)。大和川付け替え後の「新開池新田」を落札した人物(長兵衛・六兵衛)から開発権を譲り受け、前日に地代金の上納を済ませたのは「鴻池屋善治郎」。この日、落札者は新請負人に譲り手形を発行すると共に、それまでの経費2千両近く(約4億円)の受取書も出し、新田に関して何の申し立てもしないことを誓っています。しかし、その後の新田域の権利分割や費用支払いなど一連の文書を読み取る時、これは地代金を一括納入するための、見せかけの文書としかみえません。