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 上の写真は、岸和田城と瓜破大橋の下を流れる大和川。

 何の関わりもないもないようですが、実は極めて深い関係にあります。


 1704年に実施された大和川付け替え工事。

 工事開始後、他界した姫路藩主に代って任命された御手伝大名の一人、5万3千石の泉州・岸和田藩主「岡部美濃守長泰(おかべ・みののかみ・ながやす)」が、瓜破付近の工事を担当しました。

 川辺村領・53番杭から城連寺村領・76番杭までの23町(=1380間=約2.5km)です。


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 上の図は、新大和川の勾配を示す断面図である「新川地形高下之事」の部分図です。

 上の線(A)が、付け替え地点の大和川の川底。下の線(C)が、900分の1の勾配の新川の川底。

 赤い線(B)は、高さ3間(約5.5m)の堤防の高さを示してしています。

 黒い丸は、1町(約109m)毎に測量した実際の土地の高さに。この杭間が請負工事の最小区間です。



 少し古いですが、昭和の終り頃の地図に、勾配図の区域の大凡の位置を示してみます。


                               ↓阪神高速松原線
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図中央・阪神高速松原線下に瓜破大橋が架かる


 岡部長泰が御手伝大名に任命されたのは、宝永元年(1704年)の4月1日。

 4月18日に普請場所が引き渡され、約1週間後の今日・4月26日、担当箇所の下流部に当る城連寺村領内の工事が始まりました。


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     < 瓜破大橋から下流を望む >         < 瓜破大橋から上流の高野大橋を望む


 付け替え以前は、狭山西除川の右岸に位置していた「城連寺(じょうれんじ)村」。

 新川貫通で北部領域が川床になり、466石余の村高の3分の2に当る311石余を失いました。

 付け替え後、代替地の新田開発などで、291石余までは回復しています。


 城連寺の名は、昭和42(1967)年までの松原市の町名「城連寺町」を最後に無くなりました。

 現在の、天美北1~8、天美東1~9、天美南1~6に当ります。


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★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 4月26日 ☆★


● 《 岸和田藩、城連寺村領内の普請開始(1704) 》

 上記の通りです。城連寺村では、近々工事開始の報に、まだ青い麦をも刈り取りを始める一方、少しの猶予を願い出ましたが認められませんでした。好条件を提示して人手を集めて急ごうとしましたがそれも揃わず、作付面積の3分の2程度の刈り取りで諦めることになりました。