中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 大阪市東住吉区の長居公園。

 その南を東西に通じる「長居公園通」から南の大和川へは、1.4~2.0kmほど離れています。


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 江戸時代の大和川の付け替えに至る半世紀近く。
 6回に及ぶ幕府の付け替え検分時は、示された新川筋と、その近くの南北に位置する村々が、迷惑の訴えを行ないました。

 川底に土地を失うこと、南からの水の流れが多く新川堤防の南側の排水が悪くなって水害が起こり易いこと。北側は新川で用水路が絶たれ水不足が生じること。…これらの被害にあうことを危惧しました。


 検分川筋は毎回それほど大差なく、迷惑を訴える30前後の村々は、ほぼ同じような村々でした。

 従って、かなり離れた、現在の「長居公園通」付近より北側の村々にとっては、いわば無縁でした。


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 ただ、天和3年(1683年)の検分での予定川筋は、上の絵図のように違っていました。

 4月21日のブログの最後、『流域歳時記』の要旨の欄で述べた通りです。


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 江戸時代の集落の位置がほぼ伝わっている明治期の地図です。

 中央の赤い横線が「長居公園通」(当時の八尾街道)、下部に大和川が流れています。

 北側の赤い村々が1683年に迷惑を訴えた村々、大和川近辺の青い村々は、この時は参加せず、他の検分時には、ほとんど迷惑を訴えています。


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 上表は、河内国からの新大和川計画川筋が摂津国に入ってからの村々の動向を示しています。

 ②④⑤⑥は、何回目の検分かを示す数字。①③は村々の名が伝わっていません。

 

 5回目に当る1683年は、網掛けの村々が参加し、他の検分時の違いが明確です。
 ここで、「阿倍野村」は史料により、「阿部野村」や「安倍野村」とも記されています。

 「松原新田」は現在の「山坂」、「猿山新田」は「西田辺」、「寺岡」は「長居西」です。


 それぞれの村の位置を、明治期の地図で下に示しています。

 因みに、猿山新田と松原新田の間の池、現在の「桃ヶ池」「北長池」「南長池」は全て繋がり、南は臨南寺の北西辺りまで伸びています。臨南寺辺りは土地が高く、これより南には繋がりません。


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★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 4月23日 要旨 ☆★


● 《 現・長居公園通以北の村々が、付け替え迷惑を表明 》

 上記の通りです。大和川からかけ離れた地域の迷惑運動。付け替え迷惑運動の広がりを示すものではなく、そうした地域を通る計画があったためです。工事が行なわれた川筋と、6回の検分時の全ての村々をまとめて絵図上に表示して、付け替え反対の理由を考えるのには、問題があります。