中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記

                       ↑東除川


 1704年に行なわれた大和川付け替え工事。

 狭山池からの「東除川(ひがしよけがわ)」が大和川の流入する辺りは、川辺(かわなべ)村や瓜破(うりわり)村の集落の南側を新川が通りました。

 冒頭の図は、工事完成直前または直後に描かれたと見られる次の絵図に依るものです。


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 しかし、工事開始直後に発行された版画に依ると、川辺村や瓜破村の北側を通るルートが描かれています。河口からの詳しい水準測量が上流部まで終わっていない時期のもので、当初に示された流路、すなわち机上計画でのルートが描かれているものと思われます。


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       ↑瓜破村   ↑川辺村          < 3月発行「河内堺新川絵図」


 実際に、工事開始直前に作られたとみられる二つの見積書でも、瓜破村の北方を通ることになっています。


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         < 工区を示す文字の赤枠内に、「瓜破村北ノ方」と書かれている >


 このことは、次のような絵図面でも示されています。


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 Aが「河内堺新川絵図」や「見積書」に見える、川辺村や瓜破村の集落の北側を通るルート。Bが実際の工事が行なわれた流路です。


 流路が変更された理由は書き残されていませんが、恐らく、この辺りの瓜破台という土地の高い部分の掘削を出来るだけ避けようと計画されたものの、そこまで北上すると、天井川になっている南からの東除川を流入させるには、水準合わせが困難だったものと考えられます。 


 これらから、計画では「喜連(きれ)村」と「瓜破村」の間を通るものであったことが分かります。

 もしこの通り実施されていたら、河州の喜連と河内の瓜破をつなぎ合わせた、「喜連瓜破(きれうりわり)」という見方によってはおかしな名前は、生まれなかったでしょう。



★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 4月16日 要旨 ☆★


● 《 中西多豆伎、「河内扇乃記」を著す(1839) 》

 上記の事実に反し、付け替え後の新川筋をずばり描いた扇が、普請奉行が赴任した際に、道案内に便利なように甚兵衛が差し出したものとする説がありました。天保10年(1839年)のこの日の、中西多豆伎(なかにし・たずき」の『河内扇乃記』の記述を裏付けとするものでしたが、扇を持参した川中三郎平の話を鵜呑みにしたものであることを『改流ノート』などで指摘しました。甚兵衛の生い立ちが間違って伝えられる因でもありました。