中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 大正前期の第一次大戦終了後の住宅逼迫(ひっぱく)に際し、大阪市は中産階級を対象に自家建築を推奨しました。住宅組合を指導育成して、住宅建設資金の貸し付けを行う一方、住宅を経営する、土地・住宅会社に低利資金を転貸して借家建築も助成しました。


 その一環として、大正9(1920)年、旧・松原新田、当時の田辺町大字松原の地に、「大阪住宅経営会社」が大規模な住宅経営を行いました。

 それが、昭和にかけての田辺地区における一般住宅建設の先駆けとなった「松原住宅」です。


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①      ②    ③    ④    ⑤   ⑥        ⑦


 昨日のブログにあったように、昔からの道である山阪神社から南西に伸びる「道路⑥」より、西の一帯がそうです。その北部を「南港通」が東西に横切っています。

 東側、「道路⑥」と「道路⑦」の三角形の頂点の北側から南を撮影したのが、昨日の掲載写真です。


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 一方の西側には、「長池」があり、高架になった「JR阪和線」が走っています。

 旧線路跡は「天王寺大和川線」という緑道に整備されることになっていますが、未着工のままです。


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          < 南港通の北側から望む。中央の空き地が旧線路跡。


 「松原住宅」の開発で、旧・松原新田の集落の西側に位置し、曲がりくねった農道しかなかった一望の農耕地帯が、碁盤目型の住宅地に変貌しました。

 東から、「青柳通(あおやぎどおり)⑤」・「銀杏通(いちょう)④」・「栴檀通(せんだん)③」と呼ばれる直線道路が走りました。そして、それぞれの通りを玄関口とした住宅が、道路の両側に建てられたのです。

 もう一本、元々は「長池」の縁に沿っていたと見られる「柳通(やなぎどおり)②」は、今も曲がりくねった面影を残していて、先が見通せません。


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          < 青柳通⑤ >                      < 銀杏通④ >


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         < 栴檀通③ >                        < 柳通② >


 明日は、銀杏通に残る円形の交差点「ロータリー」を見ます。



★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 3月11日 要旨 ☆★


● 《 大隈重信、生誕日(1838) 》

 お好み焼き・焼きそば・串カツ・・・に欠かせない野菜「キャベツ」。明治になって栽培されるようになった西洋野菜の一つです。作ったものの、食べ方も売り方も分からない西洋野菜栽培の黎明期のお話。

 祖父・中敬男(なか・よしお)は、村長や府会議員を務めましたが、改進党党首「大隈重信」の知遇を得、アメリカ渡来のキャベツの種子をもらい、村に住む末吉幸八に栽培を依頼、数年にして作柄も大層良くなりました。大隈の計らいで、かなりの高値でフィリッピンへの輸出の話がまとまり、今米地区はキャベツブームに沸きました。が、フィリピンからの使節団に、村人が人糞を施していることを話したために、取引は即中止。日本では食の経験のないことから、長崎の外人町での捨て値処分となりました。

 大隈重信は、1838年のこの日に誕生、大正11(1922)年、85歳の生涯を閉じました。