< 『大阪日日新聞』 2012年2月27日掲載の記事から >
『大阪日日新聞』が1頁を割く、歴史探検コース「大阪あそ歩(ぼ)」のシリーズの一つとして、一昨日の27日、大阪市東住吉区の「桑津(くわづ)地区」が取り上げられていました。
その東部を北流する「今川」の解説記事を見て、「えぇっ、まだこんなこと言ってるの?」・・驚きと落胆・・・。
「(今川は)、狭山池を源流とする西除川の下流部です。大和川付替え以前は水量も多く灌漑に使わ
れましたが、付替え以降は水量が乏しくなりました。」
実は、「狭山西除川が、新大和川で流れが遮断されて流量が減少し、今川と呼ばれるようになった」という、とんでもないこの説が広がったのには、明確な根拠があります。
上記記事は、このあと、後述するような「息長川=今川説」が有力になったとも記していますので、この流れであることは間違いないでしょう。
今から7年程前、家庭への回覧・町内会掲示板その他多くの案内のもと、万葉集に詠われた息長川(於吉奈我河・おきなががわ)が今川であるとの論者の説の普及と建碑計画推進のために、論者の学問的支えとなったとされる三人の学者を招いて講演会が開かれました。
その基調講演のタイトルが、何と「300年前の大和川付替えで出来た今川」。
ご紹介いただいたのですが、「中甚兵衛」の名前もご存知ありませんでした。まことに失礼ながら、大和川の付け替えにはお詳しくないと思われる方を、重鎮として登場願ったに過ぎない感がありました。
論者が信じて止まない説は次の通りで、学者先生の裏付けが欲しかったのでしょう。
「この今川も今から300年ほど前までは、天野山を水源とする西除川が狭山池を通り、天美、城連寺、
住道と流れて喜連村に入り、ここに息長氏ゆかりの地があったということで、川の名前が西除川から
息長川(または翁川)とかわる、今よりずっと大きな美しい川だったようです。(中略)
(大和川のつけかえ)の結果、息長川は新大和川によって分断され、美しい流れや景観が一変して
しまったので、今はすっかり新しくなったということで、今川と名前がかわったわけです。」
大和川の付け替えを勉強された方なら、
①西除川は、喜連村を通らず、それより西を北上し、平野川に注いでいたこと。
②大和川付け替え工事で、西除川は新大和川より南で流れを変えて、新大和川に合流したこと。
③付け替え後、旧西除川筋は余すことなく埋められ、新田開発されたこと。
④付け替え以前から、今川という川があり、計画川筋が北寄りに振られた時の付け替え迷惑の
訴状にもその名が出てくること。
は、ご存知のはずで、上の説を論じたり、それを支持されるはずがありません。
< 大和川付け替え20~30年前の絵図に見る「今川」と『西除川」 >
この絵図は、延宝年間(1973~81年に描かれた、大阪大学所蔵の土橋家文書「今川・駒川・狭山西除天道川筋絵図」をトレースしたものです。
現在、西除川跡には、前述の通り川筋はなく、今川と駒川は共に、長居公園通の少し北側から川の姿が見えます。が、駒川が元々「依網池」から流出していたものであるに対して、今川は、上の絵図にも見られるように、元々現在地からの川であったようです。
その地点の西側と南側からの、多くの悪水井路を集めたものとみられます。明治の地図でも、狭山池からの東除川と西除川の間の地域を潤した「狭山中樋筋」とその分枝との繋がりが復元出来ます。
詳しくは、拙書『於吉奈我河考Ⅱ」をご参照下さい。