国史跡である、大阪市住吉区の「住吉行宮正印殿跡」。
「住吉大社」の南方、「長居公園通」を少し南に入った、墨江2丁目にあります。
一般に「行宮(あんぐう)」とは、昔、天皇が旅に出られた際に行先に設けられた仮の御所のことで、仮宮(かりみや)、行在所(あんざいしょ)とも呼ばれます。
< 昭和16年・文部省が掲げた説明版 >
吉野と京都に、後醍醐天皇と光明天皇の二人の天皇が立ち、互いに正統を争う「南北朝時代」が到来し、京都に足利尊氏を征夷大将軍とする「室町幕府」が成立しました。
南朝の後醍醐天皇の死で即位した「後村上天皇」が、京都を攻める折、南朝方に付いた住吉大社の宮司・津守氏の邸宅を、仮の御所として滞在しました。
住吉大社の南、広大な「正印殿(しょういんでん)」(住之江殿」の中にあったもので、その「住吉行宮跡」は、昭和13(1938)年6月に大阪府の、昭和14(1939)年3月に国の史跡となりました。
< 菊の御紋をあしらった正面の門扉>
< 史跡・住吉行宮跡 > < 住吉行宮正印殿址碑 >
菊の御紋をあしらった鉄の門扉は閉じられ、中には入れません。
説明版も、周囲にめぐらされた金網越しにしか見ることが出来ません。
隙間の多い門扉の外から、「住吉行宮正印殿址」の碑や、小さな祠を覗き見出来るだけです。
後村上天皇が行宮としたのは、正平(しょうへい)7年(1352年)の今日・2月28日から閏2月15日までと、正平15年(1360)年9月から正平23(1368年)3月までの2回。
京都奪還を果たせないまま、その3月11日、41歳でこの地で崩御しました。
次の「長慶天皇」も、ここで即位しています。
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 2月28日 要旨 ☆★
● 《 南朝・後村上天皇が津守氏正印殿を行宮に(1352) 》
後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画、足利尊氏らの挙兵による幕府滅亡、それにより古代天皇制が復活した建武中興。しかし、足利尊氏が離反し京都を手中に収め、光明天皇を擁立して幕府を開く動きに出たため、後醍醐天皇が吉野に潜幸するに至った過程を含め、上記内容に触れています。