元禄17年(1704)年の今日・2月27日、世紀の大工事「大和川付け替え工事」が始まりました。
上の図は、着工直後の3月に発行された、予定川筋を示す版画『河内堺新川絵図』です。
この日が「御鍬初(おくわはじめ)」、即ち、着工日と記されています。
< 『河内堺新川絵図』にある鍬初日や工事内容、版画発行者などの記載 >
工事進行の体制は、
● 幕府からの派遣・普請奉行 = 大久保甚兵衛、伏見主水
● 実質の工事指揮者 = 万年長十郎(堤奉行)、中甚兵衛改め甚助(今米村庄屋)
● 御手伝大名(工事遂行者) = 本多忠国(姫路藩主)
で、スタートしました。
15万石という経済力が幕府の目論見と合致し、助役として御手伝普請の命を受けた姫路藩主・本多忠国は、家臣の藤江善右衛門を大頭に、普請現場の監督・警備役や測量技師など、370名を越す士を現地に派遣しました。加えて、現地で採用する人夫の賃金も負担する予定でした。
< 『大和川御用本多中務大輔殿家来』の冒頭部 >
姫路藩は、工事に先立ち、川下より水準測量である「水盛(みずもり)」を実施して、順次、正式な川筋を決定。1町毎に杭を建て、それを続行すると共に、この日、目論見の済んだ堺の北の海辺から遠里小野(おりおの)村までの10町(約1.1㎞の工事に取り掛かりました。
< 新川の地形勾配図である『川違新川地形高下之事』部分図 >
川上から122~132番杭の間の工事が始まったことになります。
従って、新川の全長は131町。1町=60間ですから7,860間、約14.3㎞です。
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 2月27日 要旨 ☆★
● 《 大和川付け替え工事、川下より開始(1704) 》
上記とほぼ同じ内容です。