中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 「南海高野線」の「沢ノ町駅」の北側踏切が東側に見える角に、地蔵尊が祀られています。

 現在地名は、大阪市住吉区墨江(すみえ)4丁目1番。


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 石柱には、「出口地蔵尊」と大きく中央に書かれ、左に「親子地蔵尊」、右に「大日如来」とあります。

 丸い球がはめ込まれた一基の石灯篭もあります。


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 地蔵尊が祀られている西隣りの民家の前にも、「さし石」・「吾妻」と刻まれた力石のようなものや、奇妙な形の石像が置かれていて、目を引きます。


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 現在の墨江は、江戸時代は住吉大社領であった、住吉郡「千躰(せんたい)村」であった地域の一部です。

 村域は東西に細長く、北境に細江川(細井川)、西部に熊野街道が通り、熊野九十九王子の一つ「若一(にゃくいち)王子祠」がありました。


 「長居公園通」に面する墨江2丁目1番には、「千体地蔵尊」が祀られています。


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 「千躰村」の語源には、現世に千の数の仏が現れるという仏説に基づく「千躰仏説」と、千歳にわたって護符されるご神体(正躰)、即ち長い年月にわたってご神体があったという「千歳正躰説」があります。

 言い換えれば、地蔵名が先か、地名が先かということにもなります。


 この地には、住吉社領の中心である津守氏の住まいがあり、邸内には、後村上天皇の宿舎にもなった「正印殿」や、徳川家康が千歳を祝って名付けた「松栄亭」などがありました。

 どうやら、「千歳正躰説」すなわち、千躰という地名がまず生まれ、その地の地蔵にこの名が付けられたと見る方が理解できそうです。

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★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 2月22日 ☆★


● 《 河内寺跡で塔の礎石出土(2005) 》

 百済からの渡来系の豪族「河内氏」。10世紀には、一族の名は文献から消えますが、河内の地名の由来にもなったともされています。飛鳥時代に、生駒山西麓に創建された氏寺跡は、東大阪市河内町に確認されていましたが、平成17(2005)年のこの日、「新たに3または5重の塔の礎石や基壇の遺構が見つかり、塔や金堂が一直線に並ぶ四天王寺式の伽藍配置であることが分かった」と発表されました。