< 天王寺区の表記があるマンホール >
大阪市天王寺区の中部西端を走る「松屋町筋」(市道天神橋天王寺線)。
そこから東には「天王寺七坂」と呼ばれる急な坂道が伸びています。
その一つ、起伏が蛇に似ていることから、大阪の古い言葉を当てた「口縄坂(くちなわざか)」があります。
松屋町筋の東側からのスタートは、天王寺区下寺町(したでらまち)2丁目。
途中から石畳は階段状に変わります。
右手に、明治41(1908)年から昭和9(1934)年まで、この地、南区天王寺夕陽丘町(現・天王寺区夕陽丘町)にあった、「大阪府立夕陽丘高等女学校」(現・夕陽丘高校)の跡碑が建っています。
左手には、下寺町と夕陽丘町の境界標識があります。
< 上からの眺め >
階段状の石畳を登り切ってまもなくの所の右手に、「織田作之助(おだ・さくのすけ)」の文学碑と、下にもあった「口縄坂」の説明板がありました。
織田作之助については、下記の『流域歳時記』の項をご覧下さい。
ここから、東へ少し行くと「谷町筋」。「地下鉄谷町線」の「四天王寺夕陽ヶ丘駅」付近に出ます。
更にその東は、「六万体町(ろくまんたいちょう)」から、織田作之助が生れた「上汐(うえしお)」、「上本町(うえほんまち)と続き、「上町筋」に至ります。
★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』 1月10日 要旨 ☆★
● 《 織田作之助、忌日(1947) 》
『夫婦善哉』など、大阪の庶民の暮らしを題材とした作品が多い「織田作」こと「織田作之助」は、昭和22(1947)年のこの日、35歳の若さで亡くなりました。結核でした。
その3年前に発表した短編『木の都』は、自らが生れ育った地に近い「口縄坂」を舞台とした回想作品で、そのエピローグが、文学碑として坂の上に建っています。
口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。
私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分はあるまいと思った。
青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。
風は木の梢(こずえ)を激しく突っ掛っていた。