中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


● 冬至とクリスマスの深い関係


 クリスマスを目前に控えた、昨日は「冬至(とうじ)」。

 「冬至」は、一年で、最も昼が短く、夜が長い日。「かぼちゃ」を食べ、「ゆず湯」に浸かる日。

 「ツリー」を飾り、「ケーキ」を食べ、「プレゼント」の交換をする日が、「クリスマス」。

 日付の近い、この二つの日を見直し、無理やり(?)、更に近づけて、結びつけてみます。


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● 二十四節気(にじゅうしせっき)の基準点が「冬至」

 二十四節気は、太陽の動きを基準にした季節の区分で、冬至を起点に一年を24等分したものです。

 月の動きを基準にした暦を使っていた昔は、春夏秋冬の周期にズレが生じ、農作業は大変不便でした。

 そこで、中国で考案された二十四節気を取り入れ、それが日本の風土に深く根付きました。

 そのスタートの日。昼が最も短く、これ以上に短くなることはなく、徐々に長くなっていきます。

 太陽からのプレゼントなのでしょうか。この日から一年の日を数えるのが、本当のような気もします。

 事実、9世紀頃には、新年より冬至の方が賑わい、人々は「おめでとう」の言葉を交わしたとされています。


● 今日から日没は徐々に遅くなる。日の出も早くなる?


 昨日「冬至」の大阪の日の出は7時01分、日の入が16時51分。昼間の長さは9時間50分です。

 確かに、一年で最も昼が短く、今日の日の入は16時52分で、これからは、1~2日に1分ほど遅くなっていきます。しかし、分単位でみる限り、12月19日から25日までの一週間の昼の長さは同じで、冬至はちょうどその中間日です。26日に18日と同じ、9時間51分に戻ります。

 しかも、日の出は、これからまだまだ遅くなっていきます。最も遅いのが7時06分。1月13日から早くなり始め、冬至の時刻に戻るのは1月25日のこととなります。


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● 冬至に「カボチャ」を食べる訳


 冬至に「カボチャ(南瓜)」を食べると、「風邪をひかない」「厄除けになる」と言われています。

 昔からの言い伝えのようですが、日本での栽培は明治になってからですから、そんなに古くからの風習ではないようです。しかし、昔は緑黄色野菜の端境期になるこの時期、長期の保存がきいて、しかも栄養価の高いカボチャは、貴重なカロテンやビタミン補給の役目を果たしたのでしょう。

 本格的な冬をひかえ、カボチャを食べ、風邪に備える・・・、身についた生活の知恵と思われます。


● 冬至に「ゆず湯」に浸かる訳


 浴槽にゆずを浮かべ、多忙な師走のひとときを、のんびりとして疲れをとるという素晴らしい風習。

 血行を促進し、神経痛・リウマチにも効果があるとされますが、何よりもその香りが精神を落ち着かせます。

 カボチャと共に定着していますが、こちらは生活の知恵というよりは、誰かが考え出したもののようです。

 「ゆず」と「融通(ゆうずう)」、「冬至」と「湯治(とうじ)」の語呂合わせの結びつきとも言われています。


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● 12月25日は、イエス・キリストの誕生日?


 クリスマスは、紀元400年頃から降誕祭が行なわれるようになったという、イエス・キリストの誕生を祝う日。

 12月25日がその誕生日とされていますが、本当の日は明らかでないともされています。

 初期のキリスト教では、12月25日・1月6日・3月21日(春分)のいずれかに、祝っていたようです。

 それが、12月25日に定着したのは、その日に近い「冬至」と関係があるように思われます。


● 死に絶えた太陽が、冬至の翌日、復活して新しい太陽になる。


 古代の人々の考え方に、「寒くなって力の衰えた太陽が死に絶えるのが、日が一番短い冬至の日で、その翌日からまた生き返る」というものがあります。

 実際に、冬至の翌日に、新しい太陽の誕生を祝う行事が、各地で行なわれました。

 3日ある降誕祭の日程で、この冬至にほとんどダブる日、12月25日が最もふさわしいと考えられたのではないでしょうか。「冬至」と「クリスマス」・・・・無関係とは思えません。


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★☆ 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日・何の日』 12月23日 要旨 ☆★


 大阪近郊では、平成10年代に入って、永らく親しまれてきた私鉄経営のレジャー施設が、次々と姿を消しました。「近鉄玉手山遊園」、「近鉄あやめ池遊園」しかり、そして、南海の「さやま遊園」もそうでした。

 大和川に流れ込む「東除川」と「西除川」の水源である「狭山池(さやまいけ)」の東の畔に、昭和13(1938)年開園。大戦による食糧難で、花畑が芋畑に変わった時期もありましたが、昭和34(1959)年に復活。レジャーブームにのり、観覧車やスケートリンクも出来て大いに賑わいました。しかし、昭和48(1973)年の54万人をピークに、入場者数は減少をたどりました。

 少子化・娯楽の多様化・大型テーマパーク開園などの影響で歯止めがかからず、平成12(2000)年の4月1日に歴史の幕を閉じました。最寄駅だった南海高野線の「狭山遊園前駅」はその年のこの日、「大阪狭山市駅」と改称されました。