中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記

 < 大和川付け替え後に出来た新田。赤が吉田川跡の川中新田。


 1704(元禄17・宝永1)年の「大和川付け替え」後、元の流れの、古大和川・新開池・深野池や、新川筋でも、流れを変えた東除川・西除川や、依網池などは、埋め立て、「新田(しんでん)」が開発されました。

 その開発権取得には、「入・落札」制が採用され、幕府にとっては、その地代金で、大坂城金蔵から出した大和川付け替えの幕府負担金(37,500両)を、まかなう目論見がありました。


 その内の一つ、玉櫛川の下流の「吉田川」跡の新田開発願い(入札)が、10月13日に大和川が付け替え工事が終了してから1ヵ月も経たない、普請役所が閉鎖されて僅か2週間後の、今日・11月9日、大坂菊屋町の「河内屋五郎平」から「万年長十郎」に提出されました。


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       恐れながら、書付をもって、御新田、お願い申し上げ候(そうろう)


   吉田川筋残らず、町歩およそ30町ほども御座候と存じ奉(たてまつ)り候。

   御開発、私に仰せつけ下され候はば、

   (下流部の)灰塚村より加納村領まで20町ほどは、1反に付き、金2両3歩(分)2朱づつ、

   (上流部の)加納村より吉田まで10町ほどは、1反に付き、1歩2朱づつ、

   金高、都合612両2歩、差し上げ申すべく候。

   普請の儀、自分入用をもって、早速、開発つかまつり上げ申すべく候。

   御年貢、諸事御定法の通り御請け、つかまつり上げ申すべく候、御事(おんこと)

  右の通り、御慈悲の上、仰せつけ下され候はば、有難く存じ奉るべく候。 以上。


      宝永元年申11月9日          大坂菊屋町 河内屋五郎平

    万年長十郎様


 ここで、「河内屋五郎平」は、中甚兵衛の娘婿で、のちの「川中家」のルーツ。

 また、「万年長十郎」は大坂の「堤奉行」で、大和川付け替え工事では、中甚兵衛と共に指揮をとり、付け替え後の「新田開発」をも担当しました。


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 先の文書に、面積の単位として「町(ちょう)」と「反(たん)」が出てきました。

 「1町」は、ほぼ1ha(ヘクタール)、即ち100m×100m位の広さです。

 「1反」はその10分の1で、約1,000㎡。ほぼ300坪に相当します。


 また、金貨の単位は、1両=4分(ぶ、歩)=16朱(しゅ)。

 当時の「1両」は、今では約20億円。「1分」は約5万円、「1朱」は12,500円位です。


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  < 吉田川筋を開発した「川中新田絵図」。中央区切りの左側両岸に加納村領。右側が上流部。


 上流部の1反当りの地代金を極端に安く入札しているのは、絵図の右側に見るように、川筋内には付け替えの以前から、沿岸の稲葉・吉田・松原・水走(みずはい)・今米の各村の「本田外嶋(ほんでんそとじま)が開かれていて、新田領はそれらを除く、細々とした地域に限られているためと思われます。


 新田領の面積は、幕府の大縄検地で決まりますので、願書にある面積や地代金総額は目安であって、この時の入札では、各地域の1反当りの金額で、落札を競うことになります。


 「入・落札」のあとは、「大縄検地」~「地代金納入」~「新田開発」~「検地」へと進んで、新田名が決まり新しい村として誕生するわけですが、この時の新田開発では、新田村誕生の前後共に、権利者の変動が非常に激しく、このような入札控え文書が伝わっているのは極めて稀なことです。


 というのも、「河内屋五郎平」は、めでたく落札、新田開発は中甚兵衛の嫡子・中九兵衛と取り組み、その親族以外の人には権利の一部も譲渡することなく、「川中新田」が明治を迎えたことから、入札以降の一連の多くの文書が今に伝わりました。


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 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の11月9日の頁も、同じ話題です。