中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 大和川付け替え工事は、元禄17年(1704年)2月27日の川下での「鍬初(くわはじめ)」から、数えて224日目になる、同じ年・宝永元年(1704年)の今日・10月13日に竣工しました。

 付け替えは、当時「川違(かわたがえ)」と呼ばれました。

               

 かかった費用は71,500両。今では143億円位になります。

 要した人員は確かな記録はありませんが、工事直前の見積書に見られる、工事職人の日当と、費用はそれ以外に計上していないことから、それを当てはめると、延べ人員は286万人と推定されます。

 途中工事中止の期間もありましたが、単純に224日で割ると、一日平均12,800人位になります。


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       < 川違新川図 本工事と付帯工事の内容が記されている 

             

 付け替え工事の指揮は、堤奉行の万年長十郎と中甚兵衛をトップに、分担した各工区では、御手伝大名の家臣や代官の手代が当りました。

 実際の工事の形態は、「請負普請(うけおいふしん)」。

 お金を貰って働く「日用人足(ひようにんそく)」は、「土木請負人」が集めました。

 近村の農民などが、工事にかりだされたことはありません。全て職人でした。

 堤奉行の管理下でのこのような形態は、古大和川などの堤防修復で毎年行われていました。

 この手慣れた工事の仕方が、短期間終了の大きな一因となりました。


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      < 川違新川図にみる工事内容 上部の数字は分担工区 >

         

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                < 藩主が御手伝大名に任命された藩 >


 アクシデントもありました。当初、全ての工区を担当するはずだった御手伝大名の姫路藩主の死去で、「⑤姫路藩」の家臣が撤退したことで、工事は一時、中止せざるを得ませんでした。

 が、急遽、「①公儀普請場」も取り入れ、新たに「②岸和田」・「③三田(さんだ)」・「④明石(あかし)」藩主を任命、更に付帯工事に「柏原(かいばら)」・「高取(たかとり)」藩主を追加、分担・並行工事を生みました。

 いやが上にも競争心をあおがれて、お互いに競い合い、これも工期短縮に結びつけました。


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 机上計画のルートも、現地の詳しい水準測量で、すばやく変更する柔軟性もありました。

 完成ルート(B)は、「川辺(かわなべ)村」や「瓜破(うりわり)村の南部」を通っていますが、予定では、瓜破台掘削を避けて、瓜破村の北部にある「梨本(なしもと)の集落の南まで北上するもの(A)でした。

 しかし、そこでは南からの「東除川(ひがしよけがわ)」を流し込む高さが合わず、水準の合う位置まで下げ、瓜破台掘削に踏み切ったのです。


 両側に堤防を築くだけで、川底掘削しない箇所が6割ほどあったことも、工期を縮めました。

 しかし、瓜破台や浅香山では、かなりの掘削を必要としましたし、機械のない時代に、14.3kmに及ぶ工事が、わずか7ヵ月半で完成したことは、驚かざるを得ません。



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 付け替え250年目に当る昭和28(1953)年のこの日、柏原の「築留土地改良区」に於いて、八尾市の主催で、「250年記念式」と「中甚兵衛慰霊祭」が開かれました。

 また、大和川堤防上に工費100万円をかけて「甚兵衛の顕彰碑」を建てる計画が発表されました。


 付け替えの顕彰事業としては大きな意味がありました。

 が、残念なことに、この時の調査は極めて裏付けに乏しかったと言わざるを得ず、翌々年に除幕された「大和川付替二百五十年記念碑」など、その後の定説に結びつくものを生んでしまったことも看過出来ません。


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 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の10月13日の頁も、大和川付け替え工事竣工記念日として捉えています。