↓ 古大和川の久宝寺川・玉櫛川分岐点付近

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 江戸時代の初期、奈良県、当時の「大和国(やまとのくに)」北部の多くの水を集め、大阪府内の「河内国(かわちのくに)」に入ってきた「大和川」は、南からの「石川」を合流後は、北ないし北西に流れていました。 

 そして、大阪府内の「摂津国」(せっつのくに)に入ってから、最終的には、大坂城(今の大阪城)の北西部辺りで、当時の淀川(今の大川)に合流していました。

 河内平野を何本にも分流していた大和川流域の、度重なる洪水に苦しめられた農民の長年の夢が実って、1704年、大和川は西の海に直接落ちるよう、現在の流れに付け替えられたのです。


 古大和川の流れからも分かるように、河内平野の地形は南から北に向かって徐々に低くなっています。

 新大和川を通す地域にも、南から北へ何本もの川が流れ、田地の用水にも使われていました。

 すると、東西に流れる新大和川より北にある村々は、用水を失い、田畑が耕せなくなります。


 そこで、新川の上流から下流までの右岸・北堤には、数多くの大和川から水を引く樋口が設置されました。

 特に、広範囲の古大和川筋に残す用水路へは、3つの樋が用意されました。

 付け替え地点の古大和川の川幅は400mを越えていて、そこに築かれた堤防は「築留(つきどめ)」と呼ばれました。3つの樋には、上流にあるものから一~三番の番号が付されています。


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 図は新大和川の上流部の樋を表しています。上が南・下が北になっています。

 最上流部の古大和川への樋が①~③で、①「築留一番樋」、②「築留二番樋」、③「築留3番樋」です。

 ④「青地樋」、⑤「井手口樋」は、平野川(ひらのがわ)に用水を引くものでした。

 この内、今日の話題は、「築留二番樋」です。


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 上が、「築留二番樋」の大和川からの取水口、下が、堤防の下に伏された樋の出口に当る部分で、「築留土地改良区の建屋の横から「長瀬川」の流れになります。


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 「築留二番樋」が初めて設置されたのは、付け替えの翌年の宝永2年(1705)年。

 その後、何度か修復・改良が加えられたと思われますが、現在の、煉瓦造りのアーチ型の「樋門」を含む「二番樋」は、明治末期から大正期にかけて修復・製造されたもので、歴史の重みを感じます。

 馬蹄形のアーチ部の最大幅は1.6m、樋全体は幅は2m、延長55mあります。


 平成13(2001)年の今日・10月12日、「築留二番樋」は、建造物として国の「文化庁登録有形文化財」に登録されています。今年は丁度、その10周年に当ります。

 また、建造されてから、ほぼ100年を経過したことになりますね。


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  < 築留土地改良区(右)が建てた、「築留二番樋の有形文化財登録記念碑 > 


 新大和川に数多く設置された樋口の中には、農業用水を引く役目を終えてそのまま放置され、堤防そのものの強度を脅かすものとして、撤去されるものも出てきています。

そんな中、主にこの樋口からの「大和川分水築留掛り」の「長瀬川・玉串川」は、地域の貴重な水辺として、300年を越えた今も生き続けていて、全国の「疏水百選」にも選ばれています。


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 「築留二番樋」の上の堤防上には、大和川を見つめる「中甚兵衛像」の背中も見えます。

 これからの季節、この近くの桜の葉も徐々に色づき始めます。


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 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の10月12日の頁は、「築留二番樋」と同じくこの日に有形文化財に登録された、「石川」に架かる吊り橋「玉手橋」を中心に採り上げています。