中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記 中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 難波りんごさんの案内による「大阪あそ歩~阿倍野コース」レポートの2回目。

 「阿倍野図書館」西側にある広大な「阿倍野墓地」からはじまります。


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 高架の「阪神高速松原線」を挟んで、北側に見えるビル群とは、対照的な風景です。

 北側は通称「金塚(かなづか)地区」。商業・業務施設や市街地住宅の整備を目指した「阿倍野再開発事業」で生まれ変わった町で、今尚、整備が進行中です。


 手前の墓地は、大阪市内に江戸期から伝わる墓地が、明治なって集約された三大墓地の一つで、「現在の大阪の礎となる、政治・経済・文化・報道など各方面に功績を残した人々も、多く眠っておられる」と、難波さん。

 時間にも制約のあることから、代表的な二人のお墓を教えていただきました。


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 一つ目は、「関家之墓」。

 第7代大阪市長であった「関一(せき・はじめ)」も眠っています。

 御堂筋の拡幅・地下鉄建設・大阪城の再建と公園整備・商科大学(現・市大)の開校をはじめ、大阪市政への功績は、今もって讃えられ、中之島には銅像も建てられています。

 「墓石が新しくなってますねぇ・・・」と、目立つ白さに、難波さんは、チョッピリ・・・・。


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 次は、経済界の代表。ちょっとした神社を思わす、「従五位勲四等 五代友厚墓」。

 傍らには、これも墓地には珍しい「五代友厚顕彰碑」も建っていました。

 大阪株式取引所(現・証券取引所)・大阪商法会議所(現・商工会議所)・商業講習所(現・市大)の開設など、大阪の恩人として著名です。大阪証券取引所前に銅像が建っています。


 尚、この「墓石」には「従五位(じゅごみ)」とありますが、大正3(1914)年に「摂河先賢贈位」として、中甚兵衛が初めて「従五位」を授かった際に、五代友厚は「正五位」に進位しています。


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 北側の高速が走る下の道に出て、上町台地の西の端に向かいます。

 緩やかな下り坂。右手に「金塚小学校」が見えました。

 四年生の大和川授業に行った際、「あべのルシアス」の西から、ビル建設も進む、起伏の激しい地区を通り抜けたたことがあります。小学校に着けば、道路とグランドの高さの差にまず驚いたことや、学校の西側の住宅の屋根が道路の下にあった風景が脳裏をかすめました。


 墓地の西側に曲がれば、一旦は途切れたその道路の続きになります。

 「上町台地」の西端で、大阪市阿倍野区と西成(にしなり)区の境界線。

 左の墓地は、背の高さ以上の壁の上、右の街並みは崖の下です。

 が、生活圏までもが閉ざされているわけではありません。

 所々に、こうしたものが・・・・


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 上町台地の西側は遠い昔に、海流と風が運んできた砂がたまった「砂堆(さたい)」。

 古代の海岸線はここよりまだ先。その向うの海に沈む、夕日の美しさは格別だったでしょう。


 台地の東側には、こうした光景は見られません。

 難波さんが、地図や天王寺公園などを例にあげて紹介されたように、西側だけに見られるます。

 ちょうど「生駒山地」のようで、西の大阪側は急勾配、ケーブルカーは東側に設置されています。



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 続いて目指すは、「聖天(しょうてん)山」登頂。と言っても、「大阪五低山」の一つです。


 先ず、その北端にある「聖天山公園」で、旧古墳の場所であったことを教わります。


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 古墳は大きく削られて、お話を聞かなければ、今では単なる公園としか見えません。

 「地元民の、せめてこれだけは残してという願いが叶ったものです」と、難波さんが説明された、大きなクスノキがありました。


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 どうして、あのクスノキ周辺に、「聖天山古墳跡」の表示がないのだろう・・と首をかしげながら公園をあとにし、山頂に向かいます。



 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の10月5日の頁は、中甚兵衛の娘婿で、新田開発に従事した「河内屋五郎平(三郎平と改名)」の命日として捉えています。