東大阪市の「近鉄奈良線・河内花園駅」周辺の話題3日目は、北側の「花園商店街」が古大和川の一つである「吉田川(よしたがわ)の右岸堤防跡であることを、目で確かめます。
< 「菱江川」跡 ← 「玉櫛川」跡 → 「吉田川」跡 >
八尾市の「近鉄大阪線・河内山本駅」辺りを流れていた古大和川の「玉櫛川」は、北上して東大阪市の花園付近でY字型に分岐していました。
そして、東方向の流れは「吉田川」、西のそれは「菱江川」と名を変えました。
ちょうど、「河内花園駅」の西北辺りです。現在もほぼそれに沿う道路が、かなり残っています。
近鉄の奈良方面への下り電車は、旧玉櫛川の分岐直前を渡り切った所に、「河内花園駅」があります。
地上駅だった頃、大阪側にあった改札口のすぐ傍の踏切の北側から、北東に伸びる「花園商店街」の入口がありました。不二家のペコちゃん人形が懐かしいです。
また、そこを頂点の、駅に沿って東側に下る坂道がありました。
現在の商店街の入口は、駅前再開発ビル「パサパ 花園」などで立ち退きになり、ビルの北側に移っていますので、その道路に出てみます。前方に下り坂が見えるの行ってみましょう。
左側にあるのが商店街のアーケード。その先に見えるトラックを、その正面辺りから見ると・・
その位置が移動しても、商店街の入口を頂点に坂道になってることが分かります。
商店街に入ってみましょう。
商店街には、左右に横切る道が何本かありますが、左に通じる道は商店街と同じ高さが続いています。
ところが右への道は、どこも急坂です。
商店街の道路は直線でなく曲がりがありますが、右側の土地に比べるとどこもその頂点です。
そして、右側の店舗は全て、前こそ同じ高さですが、後ろにいくほどかなりの嵩上げがされています。
このような状態は、商店街のアーケードを出ても、同じ状態がずっと続きます。
実は、この道路が吉田川の堤防の跡地なのです。
古大和川は、付け替えの直前は全て、その川底が周りの土地より高い「天井川」になっていました。
付け替え後、行なわれた新田開発は、両側の巨大な堤防を切り崩して川を埋め、田畑を造成しました。
従って、新田地は旧来の周りの土地よりも、かなり高くなったのです。
その新田地の両端が、古大和川の堤防があった箇所というわけです。
その後、時が推移する中、新田地と周りの土地の利用の仕方で、段差がそのまま残っていることもあれば、このような坂道として今に伝わっています。
< 「河州河内郡川中新田絵図」(1708)上流部 >
「吉田川」は、開発後「川中新田」と名付けられましたが、その上流部の絵図です。
絵図は上が東、右が南。斜線部が「川中新田」として検地を受けました。
朱を入れた部分が、「花園商店街」とその前後の道に相当する右岸堤防の跡地です。
大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の10月3日の頁は、藤井寺市の「津堂城山古墳」が、戦国武将の熾烈な攻防の舞台となったことを示す、痕跡が見つかった話題です。平成21(2009)年のこの日に現地説明会が開かれました。