<中家過去帳> <東山墓再建者?>
中甚兵衛から数えて5代目、本ブログ8月14~16日の「江戸期の東山詣、2泊3日の船旅」で紹介した「中九兵衛重信」は、慶応4年(1868年)の8月晦日(30日)に他界しました。
釈乗宝(しゃく・じょうほう)。享年53歳。
その年9月8日の「明治改元」直前のことでした。また、数か月前に起きた5月の未曾有の大水害(本ブログ:8月25日「慶応4年の近畿大水害」)に遭遇、永らく水害を経験していない近隣各村と共に、2年間の税免除を乞う嘆願書に、「今米村庄屋 中九兵衛」として署名・捺印しています。
が、重信が生涯を過ごした河内は、大和川付け替え後の新田での木綿栽培が従来の古田にまで広がって、最も安泰だった時期。甚兵衛・九兵衛親子の時代には、考えられなかった心の余裕がありました。
船旅の京都・東山への墓詣で歌日記を残したように、天保12年(1841年)から翌年にかけて、年貢米を江戸へ回送する「廻米(かいまい)」の任を務めた折にも、俳句や短歌を、『丑寅(うしとら、ちゅういん)紀行』として残しています。
署名は、本編が「蘭里園 左栗」、付記が「中 左栗」になっています。
重信は、俳号として当初は「蘭里(らんり)」を使っていましたが、この前年、天保11年(1840)年の父の二十五回忌に、父の後年の俳号、「左栗(さりつ)」を襲名していました。
重信は、第3代・中九兵衛重正の9人の子の末っ子で、幼名:八蔵。
父は文化13年(1816年)6月28日に他界しましたが、その後、同じに生れたことについて、俳号襲名時に次のように述べています(左上写真)。
「父が亡くなった時は、未だこの世の明かりさえ知らなかったので、臨終の嘆き悲しみを知る由もなかったけれども、光陰矢の如しで、早くも今年の夏は25回忌を迎えた。自分も共に25歳の夏となった。そこで、父の別号(俳号)と聞いていた<左栗>の2字を継ぎ、世の形見と思うのも報恩の心である。」
世に名の通った文人の交わりも深かったようです。
自宅の井戸に「養花井(ようかのい)」の名を「中村秋香(あきか)」に授かり、その経緯を踏まえて、「有賀長鄰(ありが・ながちか)」が詠んだ歌があります。
「花ならぬ人の命も袖ひちて 汲めば養う心地こそすれ」
また、壺屋(つぼや、書斎)を「まほらの屋」と名付けた「六人部是香(むとべ・よしか)」の「まほらの屋の辞」や、それが神代の古語から付されたものであることと、「中」の名について述べた「中島広足(なかじま・ひろたり)」の「まほらの屋にして記せることば」などがあります。
これは絵図の一部で、時代が確定で出来ていませんが、指を指し客人に何か説明している中家の主人は、恐らく九兵衛重信ではないかと思われます。
大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の8月30日の頁も、中九兵衛重信の忌日として重信を紹介しています。