中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 大和川が付け替えられたのは、元禄17・宝永元年(1704年)。

 それが、ようやく実現性を帯び始めた頃の大事件は、「頃は元禄15年・・・」の「忠臣蔵」ですっかり御馴染。

 発端は、元禄14年(1702年)の、江戸城松の廊下での、赤穂藩主「浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)」が、高家筆頭「吉良上野介(きら・こうずけのすけ)」に傷を負わせた刃傷事件でした。


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 この事件は、大和川付け替えと直接関係はないものの、時代の象徴的なものと引き合いに出されます。

 が、実は、「忠臣蔵」のような物語に成らず、あまり知られていませんが、これよりも重大な江戸城本丸での刃傷事件で、なお且、大和川付け替えに直接関係があるとみられる大事件が、その以前に起きています。

 幕政の重要職である「若年寄(わかとしより)」が、最高職の「大老(たいろう)」を刺殺しているのです。


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  当時、幕府は国家事業として、淀川・大和川の畿内治水事業に取り組んでいました。

 その最高責任者として徹底的な現地調査を行い、5回目になる「大和川付け替え検分」をしたのが、「若年寄」の一人「稲葉石見守正休(いなば・いわみのかみ・まさやす)でした。

 「稲葉正休」は、大和川付け替えに積極的であったと思われますが、幕府は、それに否定的な意見をもつ、お抱え技師「河村瑞賢」の意見を採り上げ、本格的治水工事を瑞賢に一任したのです。


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 事件が起きたのは、貞享(じょうきょう)元年(1684年)の8月26日。

 江戸城本丸で、若年寄「稲葉正休」が大老「堀田正俊」を刺殺、稲葉もその場で滅多斬りされました。

 真相は定かでありませんが、稲葉の畿内治水の考えを、瑞賢を支持する堀田が全く相手にしないことが、原因とみられています。


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 「安治川(あじがわ)」の開削など工事を進めていた瑞賢は、一旦江戸に戻り、絵図などで工事の進捗状況を報告。幕府は継続を決め、その後も一切を瑞賢に委ねることを決めました。

 時の将軍「徳川綱吉」は、その後、大老を置かず、側用人(そばようにん)が権力を振るうようになります。


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 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の8月28日の頁も、貞享元年のこの日の若年寄の大老刺殺事件を採り上げています。