中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 八尾(やお)の難読地名の一つ、「穴太(あのう)」。

 今は、旧大阪中央環状線(八尾枚方線・河内街道)の交差点名としての「穴太」と「穴太南」や、「穴太神社」などがあるのみで、町名として残っていませんが、明治22(1889)年から昭和30(1955)年まで、八尾村~八尾町~八尾市のそれぞれの大字(おおあざ)として、その名が踏襲されていました。

 それ以前の江戸~明治は、河内国若江郡に属する「穴太村」でした。


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 大和川付け替えまでの領域は、古大和川の主流「久宝寺川」の右岸に接していました。

 上流側には「八尾村」の、下流側には「佐堂村」の領域がありました。


 広域大水害が続いている延宝3年(1675年)の絵図(上図)の文字を読み解いてみます。

 「穴太村」領の堤防の長さは、244間(約444m)で、対岸の「大蓮(おおはす)村」との間の川幅は、110間(約200m)ありました。

 川底は、過去50年間で1丈(10尺=約3m)高くなり、当時で回りの田地との差が1間(6尺=約1.8m)になっています。特に、川底上昇は過去10年間が著しく、50年間の半分の5尺に達しています。

 と言うことは、10年前の1666年の川底と田地の差は、まだ1尺(約30cm)しかありません。


 「穴太村」の状況は、大和川全体ではかなり良好な方ですが、他の村を見ても、決して「天井川」と言えない状態である内に、先を見据えて、大和川の付け替え運動が始まっていたことが窺えます。


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  「穴太神社」は、「近鉄大阪線」の北側、「久宝寺口駅」と「八尾駅」のほぼ中間に鎮座しています。

 近鉄線沿いの道から、鎮守の森が見える道を入ればすぐです。

 「穴太」と『穴太南」交差点間の「八尾枚方線」の東側で、八尾市宮町1丁目になります。


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 古代の「穴太氏」一族の祖神を祀る産土神で、以前は、「天照大神春日住吉社」と呼ばれました。

 この地は、名を穴穂(あなほ)という第20代・安康(あんこう)天皇が、その名を後世に伝えるために、穴穂の名を負わせて置いた私領の部民、いわゆる「御名代部(みなしろべ)」の「穴穂部」の地とされています。

 そして、「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」、いわゆる「聖徳太子」の生母である「間人穴穂部(はしひと・あなほべの)皇后」が生れ育った地ともされます。

 

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 また、ここにかつて、神社域を含む大伽藍を有した「大日山千眼寺(せんげんじ)」があったことが伝わり、昭和56(1981)年の発掘調査で、平安末期から鎌倉・室町時代にかけての、寺院の瓦や礎石が出、旧跡が確認されました。境内に、いくつかの石が認められます。


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 境内の楠(くすのき)は、八尾市の保全樹木に指定されています。

 また、境内北には稲荷神社もあり、「半九郎稲荷大明神」として、氏子・崇敬者の護りの神とされています。


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 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の8月26日の頁は、奈良時代に、同じ八尾市にあったと見られる、「由義宮(ゆげのみや」が平城京に対する「西京(にしのきょう)」に、また「河内国」が「河内職(かわちのしき)」と改めたものの、わずか1年足らずで770年のこの日に廃止された話題です。