中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記 中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 8月24日のプログ「大和川雲上地蔵尊」で、碑文中、疑問が残るとして指摘させていただいた、「明治2年」の大水害について、史実を確かめてみることにします。


 実は、昨日のブログをご覧になられた方から、既に、地元の関係者や郷土史をご研究の方々の間では、間違いを承知されてる旨、お電話をいただき、ひとまず安心しました。

 そうした方々には今更の念を抱かれて、恐縮ですが、一般市民に限らず、ここを訪ねられた人々は、この碑文を信用されますし、ネット検索をしても、このまま引用した記述も見受けられます(「住吉区長の日記」にも・・・)ので、小さな声ですが、挙げておこうと思います。


         中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 明治2年は、西暦1869年。管見の限り、この年の洪水記録は見当たらないのです。

 その1年前の1868年の畿内各地を襲った大水害に関しては、当時の窮状を訴える多くの史料も残っており、『新修大阪市史第5巻』・『東大阪市史・近代1』や『大阪府全志巻4』などの史書にも記されています。

 ただ、例に挙げた史書でも、年号を正しく「慶応4年」としているのは『大阪市史』だけで、他は、「明治元年」としています。「明治改元」は9月8日のことで、大洪水は梅雨時のことでした。


 上の絵図は、洪水後、時を経ずして、慶応4年(1868年)に発行された『洪水図説』に依るものですが、「大和川雲上地蔵尊」の碑文に見られる、まさに、遠里小野の地での大和川決壊の様子が描かれています。


        中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記 中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 『洪水図説』は、「慶応4年の春は、よく雨が降ったので、空梅雨(からつゆ)になるかと思われた。しかし、閏4月に入梅すると、ほとんど雨天の日が続いた。5月10日頃から、雨は益々強くなり、五畿内の河川は全て飽和状態になった。」という内容の書き出しで始まり、日を追って各地の被害状況が細かく綴られています。


 大和川では、「大井」・「若林」に続いて「、「遠里小野」の堤防が決壊したのは、5月13日のことでした。

 「大和橋」の上流、遠里小野の堤防が25町程(約2.7km)にわたって崩れ、濁流は瞬く間に「安立町」へと流れ込み、老若男女はもとより、牛馬・鶏・犬まで数多く溺れ死にました。


         中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 天皇の京都遷幸後、間もない頃で、東北地方で戦争を継続中の政府は、維新動乱の戦禍に加えて洪水の被害に苦しむ近畿各地の民に、十分な救済処置をとることが出来ず、6月22日には「其の民をして、安堵せしむるは、今日府県の責なり」として、復旧工事や減免処置などを地元に丸投げしました。


 堤防が決壊した村々の多くは、その補修に要する資金もなく、人夫費用の負担にも、多額の借金が必要であったのかもしれません。流失を免れた、大切な墓石や地蔵尊像も、再度の被害から身を守るためには、供出も止むを得なかったのでしょう。

 いずれにしても、「大和川雲上地蔵尊」に関わる洪水は、明治2年(1869年)ではなく、その前年の、慶応4年(1868)年5月のこと、と見る方が良いと思われます。


  中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 上図の右端に「大和橋」が描かれ、南詰、すなわち安立町付近の洪水の様子が描かれています。

 小学校の副読本に、過去には、「付け替え前の古大和川の洪水の様子」を描いたものとして、採り上げられることもありました。改善されてはいたのですが、昨年、ある自治体の新しい副読本に採用されることを知り、申し入れましたが、「訂正する時間がない。他に古大和川の洪水の絵図がない。」として一蹴されたのは、残念で仕方ありません。


 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の8月25日の頁は、同じ堤防修理の話題ですが、こちらは、大和川付け替え以前の、1687年の訴状内容を採り上げています。

 連年の洪水に、毎年そんなに堤防修理にお金をかけるより、我々の望む改善工事の方が得策だという訴えです。