中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 大阪市浪速区・大正区・港区の境界線が集まる西区千代崎に、「京セラドーム大阪」があります。

 そのドームの東を流れるのが、京都にも同名の川がある、「木津川(きづがわ)」。

 この付近で、東から「道頓堀川」が流れ込み、西に「尻無川」を分け、南へ流れています。


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 江戸時代の「木津川」は、「淀川」の枝流「土佐堀川」から分岐する地点の「雑喉場(ざこばちょう)」を起点として、大坂三郷・難波(なんば)村・木津村の西端を流れ南下、川の中には幾つもの島が点在していました。

 左岸には、「江戸堀川」・「立売堀(いたちぼり)川」・「道頓堀川」など、多くの堀川が流れ込んでいました。


 1684年に「安治川(あじがわ)」が開削されるまでは、木津川河口が、大坂の海の玄関口でした、

 河口には、大坂入港の諸々の船が集まり、入港する商船の管理を任務の一つとする「大坂御船手」(船手奉行)の番所が置かれていました。


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 寛文10年(1670年)の8月23日、「暴風雨」に津波を思わせる大きな「高潮」が重なって、木津川河口を中心とする大水害が起きました。

 幕府はすぐに役人を派遣して、大坂復興に取りかかりましたが、翌年にはその役人に依る、3回目の「大和川付け替え検分」も実施されるほどでした。淀川と大和川の二大河川が、一つの出口からしか海に出られないことが、以後の治水を考える上で問題視されたのでしょう。

 『徳川実記』や『雑喉場魚市場沿革史』など数多くの文献に、被害の凄まじさが記録されています。

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 台風でも襲来したのでしょうか、この日は明け方から風雨が強まり、正午に晴れ間が出るまでの3~4時間の風雨が猛烈で、加えて、木津川河口からは高潮が襲いました。


 官船・諸大名の船をはじめ、諸国の船、往来の大船・小船が全て流失。それらは堤防や橋・民家までも壊し、破損した船舶は、遠く「枚方(ひらかた)」まで逆流したと言います。まるで、津波のような勢いだったのでしょう。人畜死傷の数は数え知れないとしています。

 海辺の田畑もほとんど全て流されました。

 これ以後、この日は、漁人は漁を休み、雑喉場市場も休業して、弔意を表したそうです。


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 船手奉行の高林又兵衛・森川六左衛門の屋敷も床上30cm以上浸水し、与力・水主・妻子・下人などに、多くの溺死者も出ました。与力の家は大半、水主の家は残らず流失してしまいました。
 この日、有名な禅僧「龍渓」も、溺れて亡くなっています。


 「大坂城」・「四天王寺」・「住吉大社」なども、破損被害を受けました。

 堺の「戎島」も、ことごとく流されたと伝わっています。

 因みに、この日の惨事が、江戸で記録されるのは、5~6日経った、8月28日か29日です。

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 尚、今日の写真は、今から10数年前、「木津川」で「道頓堀川水門築造工事」が行なわれていた時のものです。当時の「大阪ドーム」では、あの「イチロー」が「オリックス」で活躍していた頃になります。


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 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の8月23日の頁は、1670年のこの日の大水害が、3回目の大和川付け替え検分の引き金になったとして、検分内容と結果に重点を置いています。