中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 「JR大阪環状線」の、「京橋駅」北口にある駅名表示。

 「京阪本線」のガード下で向かい合う、その中央口の表示に負けじと、対抗しているように見えます。


中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 この改札口。入って左側へ行けば、大阪環状線の天王寺方面への所謂「外回り」の、また、右側に行けば、「内回り」の大阪方面への、ホームにのぼる階段やエレベーターがあります。

 2本の線路を挟んで、ホームが向き合う単純な構造。

 過去に、通勤など数え切れないほど利用していたので、何番線ホームから乗車するなど気にすることはなく、仮に番号が付られていても、どちらかが1番で、一方が2番線・・・という認識しかありませんでした。


中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 改札口の上にある標識に、初めて気付きました。

 確かに、環状線の高架ホームの南端(大阪方面行きなら後ろ、天王寺方面行きなら一番前)から、階段を下りれば、環状線と交差している地上駅の「JR片町線・京橋駅」があり、勿論、幾度となく利用しています。

 しかし、そちらが1・2番線で、環状線が3・4番線ということには、恥ずかしながら、知りませんでした。

 また、別々の名前が付されているのに、ホームが1本づつというのも、ちょっと不思議な感じです。


中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 当然、「環状線」のどちらのホームからも行けるはずで、外回り(2番線)にも、表示がありました。
 馴染のある「学研都市線」のホームには、内回りの方が近いので、3番線ホームから進んでみます。

 今まで、気にしなかった表示も目に入ってきます。


           中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記

 環状線3番線ホームの南端には、「尼崎(あまがさき)駅」まで通じている、「JR東西線」の1番線ホームと、「南出口」へ降りる階段に案内板があります。

 この南口が、本来の片町線の「京橋駅」のもので、今も、西口を合わせ3つある中で、最も大きな北口ではなく、駅長室など駅本屋が南口に設けられています。「1番」なる所以でしょうか?


 「JR学研都市線」の四條畷・木津方面へは、その手前、右手に降りる階段を利用します。


中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 「JR学研都市線」の愛称は、昭和63(1988)年から使用されているもので、正式名の「片町線」の名も根強いものがありましたが、最近ではほとんど使用されなくなりました。


 「片町線」の名称の由来は、大阪側の終点が「片町駅」であったからで、国有化された2年後の明治42(1909)年に「放出(はなてん)駅」までが、大正2(1913)年に京都側の終点「木津(きづ)駅」までの全線の名称として指定されました。

 明治28(1895)年8月22日に、「四條畷」まで開業した時には、「片町駅」から500mしかないことから、「京橋駅」はありませんでした。

 その10月に今の環状線の元である、天王寺・大阪間(城東線)に「京橋駅」が出来、片町線のそれが誕生したのは、大正2(1913)年のことでした。


中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 そして、平成9年(1997)年3月、「北新地駅」などを経て「尼崎駅」に達する「JR東西線」の開業に伴って、「学研都市線」の京橋~片町間500mの路線と「片町駅」が廃止されました。

 「東西線」の次駅としては、「大阪城北詰駅」が設置されました。


 地上の「京橋駅」はこうして、互いの乗り入れもあるものの、「学研都市線」の終点であると共に、「東西線」の始点となりました。

 表示にも見られたように、それぞれの路線に乗り込むには、一つのホームで良かったわけです。


中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 今日は、前述のように、私鉄時代の「浪速鉄道」の、片町~四條畷間の開業記念日。

 路線は、「関西鉄道」から「国鉄」へと引き継がれ、現在の「JR」に至っています。

 電化や、自動改札機の設置も、関西の国鉄としては、初めてのことでした。

 また、「片町駅」は消えても、「片町線」の名は正式名として、生き残っています。


 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日」の8月22日の頁も、開業記念日として綴っています。