中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記

                      < 中甚兵衛剃髪帯刀画像 >


 「中甚兵衛(なか・じんべえ)」は、今から370年も前の寛永16(1639)年に、河内国河内郡今米(いまごめ)村の庄屋の家に生まれました。
 当時、大和川は大坂京橋で淀川に合流する流れで、摂河両国15万石余の村々のあちこちで、度々洪水被害を起こしていましたので、その解消が待たれていた時代です。


 父が亡くなった翌年の明暦3年(1657)年、19歳の中甚兵衛は単身、江戸に出向き、大和川の付け替えを幕府に嘆願しましたが、容易には聞き入れてはもらえませんでした。

 度重なる嘆願、新川筋農民の抵抗、幕府の対策変更・・・など、紆余曲折の後、付け替えが決まったのは、元禄16年(1703)年のこと。中甚兵衛は既に、65歳にもなっていました。


 翌、元禄17・宝永元年(1704)年、中甚兵衛が普請御用を仰せつかった、大和川の柏原から堺の北の海への付け替え工事は、わずか7ヵ月半という短期間で完成しています。

 宝永2年(1705)年から3年をかけて、旧川筋などに多くの新田が誕生しました。

 工事の翌年に剃髪した中甚兵衛は、享保15(1730)年に亡くなりました。享年は92歳です。


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                      < 中甚兵衛着用鹿革陣羽織 >


 以上が、「大和川の付け替えと中甚兵衛」についての、極めて簡単な説明です。

 この内容は、明治14(1881)年に、大阪府が地誌編集のために各町村に調査を命じたのに対し今米村が差し出した、『今米村誌』に記載されたものと大差ありません。

 翌年の8月20日の日付で、今米村戸長・砂松甚三郎から大阪府知事に提出されています。


 今、この『今米村誌』を引き合いに出すのには、訳があります。

 と言うのも、昭和29(1954)年の、「大和川付替二百五十年記念碑」の誤り(史料的裏付けのない内容)に気付かず、各市町村史類をはじめとする書物や、小学校の教科書(4年生副読本)までにも永く記されていた、「中甚兵衛の父」の名や行動については、一語の言及もしていないからです。

 十分に調査をした、史料に則ったる記載であることが分かります。


 迷惑を訴えた村々の史料をはじめ、調査の進んだ今でも、父の生存の間には、全く大和川付け替えに関する記録は出てきてはいません。

 この点以外にも、誤りの根源を見つけて以来、20数年、歴史の見直しに取り組んで来ていますが、今なお、古い書物などの引用が止まず、作り上げられた「定説」を改めることは、容易ではありません。


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                  < 甚兵衛・乗久(法名)の自筆署名と花押 >


 新田の開発者に関しても、今でも実に曖昧な記載が多く見られます。

 が、『今米村誌』と時を同じくする『川中新田誌』には、「吉田川筋新田」、即ち、検地の際に「川中新田」と名付けられた新田の開発者として、「中九兵衛」と「河内屋五郎平」を記載、的確に捉えています。

 これまた、確かな史料を紐解いた結果でしょう。


 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川この日何の日』の8月20日の頁も、明治15年のこの日付けで提出された『今米村誌』の「人物」の項に記載された、中甚兵衛に関する話題です。