中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 江戸城本丸が炎上した「明暦の大火」の3年後、万治3年(1660年)。諸国に風水害が多発しました。

 摂津・河内でも、8月17日は大雨となり、翌日には頑丈な大坂城の石垣や塀も、かなり崩れるほどで、大和川流域でも各地で被害が発生しました。


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 その被災状況と対策を確認するため、幕府は勘定奉行などの役人を派遣しました。

 水害を被った地域を視察したあと、初めてとなる「大和川付け替え検分」が行なわています。

 河内百姓の幕府への訴えからも、3年が経過。前年に、江戸城本丸の再興が成ったこともあって、幕府も漸く重い腰を上げたのです。

 甚兵衛が江戸に居を置き、度重なる訴えを続けたことも功を奏したのでしょう。


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 大和川の右岸堤防から見た、南から流れてくる「石川」との合流点です。

 手前が右岸側の河川敷。向う側に大和川左岸から石川両岸に続く、広い河川敷が見えます。

 水の流れから、一見、共に狭い川に見えますが、洪水時には一気に川幅が広がり、江戸時代は洪水被害が絶えない所でした。古大和川は、写真の右手の方に流れ、河内平野を北上していました。


中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記 ←大和川

                   ↑石川


 現在の大和川は、石川を合流後、大きく流れを西に変えていますが、古大和川は、両川を合わせた川幅(300~400m)と流れの向きのまま北上し、分流・合流などを繰り返した後、最終的に大坂城の北西部で、淀川(大川)に流れ込んでいました。

 そのために洪水被害が多く、流域の農民たちの苦労も絶えませんでした。

 そこで、淀川と切り離し、大和川自らが直接海に達するよう付け替えて欲しいというのが、甚兵衛の願いだったのです。分流する前の一本の流れのまま、西の住吉~堺の方の海へ流す考えです。

 私はこれを、「北から西への改流(かいりゅう)」と呼んでいます。


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 この時、計画されたのは、実際の付け替え地点より下流の二俣に近い、志紀郡の弓削(ゆげ)・柏原(かしわら)の村境から、住吉郡安立町(あんりゅうちょう)の南にある「手水橋(ちょうずばし)」まででした。

 杭を打ち、縄が張られ、現地に予定川筋が示されたのです。


 その後に行なわれる検分も、付け替え地点が徐々に南に下がることはあっても、ほぼ同じルートであることが多く、その時の海辺の終点は、いつも住吉「手水橋」でした。

 上の、付け替え前の図の、「安立町」の右(南)を流れる「狭間川(はざまがわ)」に架かる橋です。

 この地点までくれば、後は狭間川の幅を広げるなりすれば、海に達すると考えたのでしょう。


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 実際には、狭間川の一部は利用していますが、新川は「手水橋」付近を通りませんでした。

 工事中の、新川の南からの水の排水用に使われたのでは・・・と考えています。

 工事開始直後に描かれた絵図でも、手水橋は外れています。

 図の水色の部分が狭間川で、のち細い水路を除いて埋め立てられ、新田となりました。


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 初めての大和川付け替えの検分は、新川で川底と化したり、排水が悪くなる南側、逆にそれまでの用水の便が悪くなる北側の村々の、強い迷惑の訴えがあって、幕府も強硬な態度をとらず、棚上げになりました。

 「縄筋と水損・日損場になる河内国志紀郡・丹北郡と摂津国住吉郡の村々」が迷惑を訴えたわけですが、その具体的な村の名前は伝わっていません。


 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の8月17日の頁も、同じ話題です。