中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記  <淀川河川敷~以下同じ>


 文久2年(1862年)閏8月16日。

 前日に、京都西大谷の墓詣などを済ませた、中九兵衛重信と河澄作兵衛常房(大戸常房)の二人は、伏見から淀川の夜船に乗り、難波を経て河内に戻ります。

 「船中月」「閏月十五夜」の題で詠む内に、夜もかなり更けて、まどろみました。


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 朝早く、船は難波の八軒家に着き、荷物などを整えて家路につきます。

 叔父(おじ)に当る重信を今米(いまごめ)の家に送り、常房が日下(くさか)の自分の家に帰った頃には、日も暮れようとしていました。

 重信にとっては、宿で一泊・船で一泊の2泊3日の墓参りでしたが、常房の方は、今米出発の前日も重信宅に泊まったようなので、3泊4日になったと思われます。

 
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 この3日間の行動の再現は、「いとおかしけれど、これも物を学ぶ嗜みにもなりなんと思い、重信君の詠歌を乞い、紀行を記す」と締めくくっている、常房の紀行文に依りました。

 重信28首・常房38首が、収められています。


 常房は、河澄(かわずみ)家の第19代。「日下連(くさかのむらじ)河澄与市大戸何某(おおえのなにがし)」という自家の古い名乗りをとって、この紀行文では、「大戸常房」と記しています。

 明治になって、「河澄雄次郎」と改名。河内の文人としても著名です。


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 常房の紀行文に続く余白に、重信は、「家を継がせる子の亡くなりしに、夜な夜な月見れども、曇りがちなれば・・・」として、悲しみの胸の内を詠んだ7首を付け足しています。

 最後の歌は、「かかる身に常ならぬ世をさとしたる 子はわが為の教えなりけり」。


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 この紀行文の全編所々に朱筆を入れ、短評を書いているのが、歌人「大隈言道(おおくま・ことみち)」です。

 重信の悲しみを早くから知り気がかりだった言道は、重信の最後の歌を受け、「まこと、わが為の教えになん」という結びで、いたわりの言葉を添えています。

 言道もまた、一年前に世継ぎを11歳で失った息子の嘆く様を、国元から聞くに及び、自分の周りにはそれを知る人もなく、一人嘆き悲しんでいたことから、特にこの歌に同感出来たのでしょう。


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 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の8月14~16日の頁でも、1862年の重信と常房の墓詣に関する話題を綴っています。