中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 昨日紹介した、京都東山「大谷本廟」の西大谷のお墓。

 江戸末期に、淀川の「三十石船(さんじゅっこくぶね)」を利用した、お墓参りの記録が残っています。

 今日は、現在の淀川(太間付近)の写真を使いながら、本文で京都に向かう様子を再現します。


 時は、文久2年(1862年)の閏8月14~16日。

 河内郡今米(いまごめ)村の、中甚兵衛から数えて5代目の「中九兵衛重信」が、その甥(おい)に当る河内郡日下(くさか)村の「河澄作兵衛常房」(大戸常房)と連れだって、墓詣(はかもうで)をしています。


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 重信は7月28日に、世継ぎを期待していた長男・甚太郎を18歳で失ったばかり、常房も5月に、49歳の母を亡くしていました。しかも、その母なる人は、重信の実姉・道でした。

 共に、「新盆(あらぼん、にいぼん、初盆)」であったわけで、和歌を嗜む二人にとって、悲しい心の内を綴る旅になりました。


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 早くから約束をし、常房は前日から重信の家に泊まっていたようで、8月14日は、まだ夜も明けぬ内、月明かりのもと、「今米」の里を出かけています。

 「徳庵(とくあん)」からは、朝霧の中、「難波(なにわ)」に商いに向かう川舟に乗せてもらっています。

 昨日、降り続いた雨も止み、この日は、朝日がさす好天になりました。


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 淀川の難波・大坂の船着場は、「八軒家(はちけんや)」です。

 早くも船が出ようとしているのに驚き、急いで荷物や旅客を運ぶ「三十石船」に乗り換えました。

 ここから、淀川を遡って、京都の「伏見(ふしみ)」へと向かいます。


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 「八軒家」を出発した船は、「天満橋」「京橋」「桜宮」「毛馬(けま)」「赤川」を経、くらわんか船で有名な「前島」「枚方(ひらかた)」を過ぎ、八幡(やわた)の「橋本」、お城のある「淀」まで来ると、あと少しです。


 伏見に入ると、まず「肥後橋」。ここは、大坂の京橋北詰の「片町」を出発点とする「京街道」が達する所です。三十国船の終点は、その先の、伏見随一の船着き場である「京橋」です。


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 「伏見京橋」に着いたのは、もう夕刻近く。

 8月と言っても、今と少なくともひと月のズレがある「旧暦」、しかも、「閏(うるう)8月」です。

 月の満ち欠けでひと月を決める暦(旧暦)では、太陽を基とした暦(新暦)が合う「一年の季節」とズレが生じるので、ほぼ2年7ヵ月ごとに、同じ月を繰り返していました。

 この年は、8月がふた月あって、初めが「8月」、あとが「閏8月」なのです。


 従って、季節は全くの秋。

 「秋の日あしは暮れやすければとて」、秋景色の中、「伏見街道」(稲荷街道)を急いで北に向かいます。

 道すがら、出てきた月を見ながらも口ずさみつつ、今夜の泊まりである「五条」の宿に着きました。


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 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の8月14日~16日の頁でも、1862年の重信と常房の墓詣の歌日記の話題を、角度を変えて採り上げています。