大阪市東住吉区住道矢田(すんじやた)にある「中臣須牟地(なかとみ・すむち)神社」を訪ねます。
昨日、向日葵を紹介した「長居植物園」のある「長居公園」。その南を走る「長居公園通」を東に進み「近鉄南大阪線」の高架を過ぎると、北側(左手)の町名は、6月30日に訪れた東住吉区の「湯里(ゆざと)」、南側(右手)は、同じ「照ヶ丘矢田(てるがおかやた)」になります。
照ヶ丘矢田側には、「城南学園」の幼稚園・小学校・高校・短大など広大な敷地が広がっています。
「今里筋(いまざとすじ)」との「湯里6」交差点を右折して、「住道8」交差点へと向かいます。
因みに、大阪では、南北の道を「筋(すじ)」、東西の道を「通(とおり)」と呼ぶのが基本です。
上の写真は「住道8」の交差点から振り返り写したものですが、左手の木は目的の神社の木です。
基本的にここまでが、「照ヶ丘矢田」。その町の東と南は「住道矢田」です。
ただ、社地は照ヶ丘矢田に割入る形で、住道矢田2丁目に含まれています。
ここで右に折れるわけですが、完全な十字路になっていないにも関わらず、車の通行量が多い道です。
すぐに社殿が正面にある鳥居の前に出ます。
神社前は、道幅も狭いです。写真は道を挟んだ空き地から撮りましたが、車のすぐ横を携帯電話を覗きこんでる若者の姿も写っています。
危険なためか、この正面の扉は閉まっていて、ここからは境内に入れません。
もう一本南の道路から、車の途切れる一瞬を狙って撮ってみました。
境内に入るには、もう一つ西側にある鳥居からになります。
鳥居脇に「式内大社 中臣須牟地神社」とありました。
「式内社(しきないしゃ)」とは、平安時代中期に編纂された『延喜式(えんぎしき)』という法律の施行細則の、「神名帳(じんめいちょう)」に載っている、古くからの格式のある神社を指します。
「大」とあるのは、その内でも社格が高いのでしょう。しかし、時を経て、史料も散逸したのか、この碑の横にも、これから訪れる境内にも、神社でよく見かける祭神・創建の「由緒書」などの説明は全くありません。
鳥居をくぐり、うっそうとした鎮守の森と言うより、手入れのされていない原生林を左手に見て、車が走る道路沿いの土の道を戻ると、境内にでます。
拝殿も閉まったままですが、地元の方の手によるものでしょうか、境内は小奇麗に清掃されています。
拝殿裏手には土塀跡とみられるものがありました。
帰り道、西の鳥居を出、神社前の道を戻りましたが、標識は木に隠れ、傍に近づかないと見えませんでした。
明日は、住吉区にあるもう一つの「須牟地神社」を訪れ、「須牟地と住道」の関係も考えてみたいと思います。
大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の7月9日の頁は、式内社に深い関係がある「延喜式」が、967年のこの日から施行されたことを話題にしています。