大阪に、現在の南海本線・JR関西本線(大和路線)・JR片町線(学研都市線)しかない明治20年代。
生駒山麓近くの河内平野を南北に結ぶ鉄道計画がありました。
大阪と河内の間には、
先ず、明治22(1889)年に、「大阪鉄道」が湊町~柏原間を開通させました。
そして、明治28(1895)年には、「浪速鉄道」の片町~四条畷間が営業を開始しました。
日清戦争後の好況時です。
この時、浪速鉄道の「住道(すみのどう)停車場」と、大阪鉄道の「柏原(かしわら)停車場」を結ぶ鉄道が計画されたのです。祖父の中敬男(なか・よしお)らが携わり、「河内鉄道」と呼ばれました。
主に、古大和川の吉田川と玉櫛川跡の新田地を通すもので、途中には、「生駒(いこま)・瓢箪山(ひょうたんやま)・山本・恩智(おんぢ)」の4つの駅が設けられる予定でした。
6駅の年間の積み込み貨物は7万1千余トン、乗り込み旅客は52万7千余人と、沿線の物資輸送や神社仏閣の参拝者の往来などが見込まれ、採算性は十分でした。
明治30(1897)年には仮免許・実地測量が認可され、翌年には創業総会が開催されました。
しかし、折しも経済界に大恐慌が襲いました。
取り巻く環境から、ついに断念せざるを得なくなり、明治32(1899)年6月19日、本免状の発行を見合わせてもらう申請書が提出されました。
それから110年が経過、平成20(2008)年になってようやく、河内鉄道より内側になりますが、学研都市線の「放出(はなてん)駅」と大和路線の「久宝寺(きゅうほうじ)駅」が、「JRおおさか東線」の一部として結ばれました。
大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の6月19日も、同じテーマです。
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