中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記

 

 1684年に生まれた中甚兵衛の末娘は、大坂菊屋町(きくやまち)の「河内屋五郎平」に嫁入りしました。


 1704年の大和川付け替え工事が終わった後、夫の河内屋五郎平は吉田川筋の新田開発権を落札。

 甚兵衛娘の実家のある「今米村」(いまごめむら)が吉田川の沿岸にありましたので、中甚兵衛の嫡子・九兵衛と新田開発に携わる便のため、実家近くに新田会所を建て、夫婦で今米村に戻りました。


 この住宅を兼ねた新田会所の今米村の土地は、新田検地に先立ち、新田地の一部と替地を行ない、新田領域に組み込まれました。検地で新田名が「川中新田」と名付けられ、この「川中新田会所」は明治の初めまで、存続します。


 「川中新田」は、明治時代に「川中」となり、領域は徐々に絞られましたが、昭和の終わりでも「東大阪市川中」の地名は、細長い旧川筋跡にかなり残っていました。


 しかし、平成になってからの土地区画整理事業で、旧川筋を知りえる部分が完全に消滅。

 しかも、なんということか、旧川中新田の中心地である会所跡地も、わずかに残された「川中」の地名域からはずされてしまいました。歴史的認識がなかったのでしょうか。


 いつしか、地元においても、会所が存在した位置を知る人が居なくなってしまうことが懸念されます。



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 甚兵衛の娘は、正徳6年(1716年)6月9日、4歳の子供を残して33歳の若さで亡くなりました。

 

 のち、河内屋は、その2代目の子供の一人が今米村に分家をつくります。1760年頃です。

 徐々に、河内屋の屋号から姓を川中と変え、屋敷の位置関係から、川中新田の方を東川中、今米村の方が西川中と呼ばれるようになります。