あたしの恋人
詞・曲 谷山浩子 『鏡の中のあなたへ』(1978年)所収
あたしのこいびとは飛行士で
はじめての空を飛んだときに
谷山浩子さんは、いろんな意味で稀有なアーティストですね。
レコードデビューは1972年といいますから、中島みゆきさんよりも先輩で、荒井由実さんや五輪真弓さんと同期。何十万枚も売れたようなヒット曲はないのに、来年はデビュー30年になる本当に息の長い活躍をしているひとです。
また、デビュー曲や若い頃の曲には才能のきらめきがあるのに、年齢を重ねるごとに自己模倣を重ねて凡庸になっていくアーティストはたくさんいますが、逆に若いころよりも最近の作品の方が明らかによくなっているという人も谷山さん以外あまり思いつかないですね。これは単にわたしが、知らないだけかもしれないのですけれども。
真赤な炎吹きあげながら
落ちてきたけど死ななかった
さて、「あたしの恋人」は谷山浩子さんの4thアルバム『鏡の中のあなたへ』の冒頭の曲です。このアルバムは、これまでのアルバムにとりいれてきた不思議の国のアリスや日本昔話などの童話をモチーフとした曲を排し、男女の恋愛をテーマとした、どちらかといえば(あくまで谷山さん的にということですが)リアリズムな感じの曲たちで構成されているアルバムです。
その冒頭に配されたこの曲は、ギターとピアノのシンプルなアレンジでモノローグのように奏でられる3分に満たない小品ですが、初期谷山浩子さんの隠れた代表作ともいうべき名曲だとわたしは思っています。
それから今まで生き続けて
あたしの隣に今もいるわ
これからもずっとこのままだと
あたしの髪をなでながら
まず、「この落ちてきたけど死ななかった」という歌詞の最初のインパンクトが抜群ですね。普通飛行機が真赤な炎を吹き上げながら墜落した場合、不時着するか、パラシュートで脱出するかでもしない限り、パイロットが生存できる可能性は限りなく低いものだと思いますが、どういう理屈や状況があったのかは全く謎ですが、とにかく事実として「落ちてきたけど死ななかった」のです。
ただ「死ななかった」とはいうものの「無事だった」とポジティブに表現されているのではない以上、命こそ繋いだものの、実は重大な障がいを抱えたり植物人間のような状態になっているのではないかという懸念を感じさせる表現でもありますね。
あたしは知ってるあの人が
夜ごとの眠りに夢見るのは
あの日のきらめく風の中で
燃え尽き砕ける自分の姿
しかし、歌詞を素直に聞くならば、何か身体的な障がいを残してしまったというような、とりわけ、江戸川乱歩の『芋虫』のように四肢を失い、五感も失った怪物のように哀れな姿を想像してしまうのはいささかうがち過ぎのように思います。もちろんそのようにも想像してしまうのは自由ですし、そのようにもできることが谷山さんの作品の幅であり魅力でもあるのでしょう。ただ、わたしはそのような身体的な障害の問題は、この曲においてはあまり重要なことではないように思います。
夢からさめればまたためいき
あたしのからだにしがみついて
光のかわりに暗い汗を
風のかわりに口づけを
むしろ落ちてきた彼が、背負ってしまったのは、徹底的に精神的なダメージです。墜落の恐怖は、夜ごとの悪夢、精神的トラウマとなり、もう二度と飛行士として空を飛ぶことはもちろんのこと、人生に何か目標をもってポジティブに生きていくことすらできなくなってしまうように、何か人間としての存在の本質的な要素を根こそぎ奪っていったかのようです。
落ちてくる飛行士のイメージは、ギリシャ神話のイカロスとも重なってみえます。蝋で固めた鳥の羽根を翼に空に飛び立ったイカロスは、あまり高くとんではいけないという父の忠告を無視して、太陽に向かって高く飛びあがり、太陽の熱で羽根を固めた蝋がとけて、たちまちまっさかさまに墜落してしまいます。
理想に燃える青年の純真さとその裏返しでもある無謀な愚かさひ弱さの象徴として繰り返し使われたこの神話のように、落ちてきた飛行士は、社会に出るや否や何かに早々と挫折してしまったエリート青年の象徴のようでもあります。
あなたが好きあなたが好き
死ぬまでそばにいてあげるよ
あなたのものあなたのもの
死ぬまでそばにいてあげるよ
そうして傷ついた元飛行士の彼に、「恋人」の「あたし」は、無辜の愛を持って接します。彼が望むまま、死ぬまでそばで寄り添うという永遠の献身を彼に誓います。二度と飛び立つことのない彼は、彼女を経済的・社会的に幸せにする能力はないかもしれません。そればかりか、彼女の愛にしがみつき、ひたすら身勝手に依存するだけかもしれません。
でも、彼女はそれでもよいという。永遠にあなたのものだという。身も心もあなたに捧げるという。あたかも、罪人をみちびく聖母マリアのような純粋な母性が、俗世を超越した天上の愛がそこには描かれているのでしょうか。この曲はそのように解釈しようと思えばそういう風にも受け取ることが出来るのかもしれないと思います。
しかし、それにしては、この曲の暗さはなんでしょう。無辜の愛を描くにしては、何か全体を貫いて見えるこの後味の悪さはなんでしょう。単なるわたしの錯覚でしょうか。
谷山さんは不思議の国のアリスのような童話世界をモチーフにした作品群が有名ですが、童話そのものが、そもそも、子供向けに語り継がれた美しい仮想の物語の中に、実は現実社会の黒々とした諸問題が密かに織り込まれているように、谷山浩子さんの作品の多くには、決して一面的表面的にはとらえられない多義性が、貫かれているように思います。
一時「本当は恐ろしい○○童話」という本が流行しましたが、谷山さんが童話を作品のモチーフに選んだのもそうした童話のもつ裏表の面白さにいち早く気付いていたからではないでしょうか。
そうしてみると、この曲は単なる美しい無私の愛の姿を描いたものだと解釈してよいはずがありません。
まず初めの引っかかりは、この曲のタイトル「あたしの」恋人です。朋友の中島みゆきさんはともかくとして、谷山さんが作品の中で「あたし」という自称表現を使うのはまれです。「わたし」ではなく「あたし」という蓮っ葉な言葉をあえて選択した時点で、この曲の主人公の女性像が、マリア様のような純粋無垢なものではないことがうかがえます。
では、この女性はなぜ、この「落ちてきた飛行士」にこのような自己犠牲的な愛をそそごうとするのでしょう。また、そのような愛を注がれながらも、いくら深いトラウマがあるとはいえ、その女性に対して、元飛行士の愛情が一向に感じられないのはなぜでしょう。
飛行士の男性とこの女性との関係は決して対等なものではありません。この男性と女性との間には明らかに立場の格差があります。
自由に空を飛びまわる能力を持つ飛行士は、いわばエリートであり、社会的に高い身分の象徴です。具体的に描かれてはいませんが、おそらく美男子で身長も高く金持ちなのではないでしょうか。それに対し、主人公の女性は、例えば娼婦のように社会的に身分が低い存在か、あるいはとんでもない不美人のような、通常なら到底釣り合わない、決して関係を持つことのない存在であり、飛行士が空から落ちてでも来ない限りは決してそばにいることがいることが出来なかったと存在だというふうに想像すれば、この二人の関係はよく理解できるような気がします。
空から落ちた脱落者である男には、再び高みを目指す気概はありません。一方、その男が脱落でもして来なければ決して自分のものになることもなった女の立場としては、その男を精神的に立ち直らせ、再び空へ飛び立たせる必要はありません。むしろ一生自分にしがみついていてくれるダメダメな存在であり続けてくれることが、死ぬまでその男のそばにいることのできる保障でもあるのです。だから、ダメなままでいい、一生そばにいてあげるよと男の耳元で甘く囁くわけです。
さて、そのように考えてみるとこれは献身的な無辜の愛の歌でしょうか。むしろ谷山浩子さんの初期作品でいえば、「あたし、あの男欲しいよお」と男を水の中に引き込もうとする「水蜘蛛」に通低するおどろおどろしさをこの曲に感じないでしょうか。
「死ぬまでそばにいてあげるよ」という言葉とともに唐突に訪れるこの曲のエンディングは、ことばとは裏腹にこのような関係が決して永遠のものではないことを象徴しているかのようです。やがて、男は傷が癒え再び飛び立とうとするかもしれませんし、女はそのような一方的な関係にしだいに倦み疲れていくかもしれません。
しかし、一つ言えることは、谷山さんの暗くて美しい旋律にのせるとき、このような愛の形も美しく尊いものに昇華されてしまうというのだということです。
もちろん、このようにつらつらと書き連ねたことも私の妄想であり、この二人がその後どうなるのかは、わたし達一人一人にゆだねられ、決して語られることはありません。
詞・曲 谷山浩子 『鏡の中のあなたへ』(1978年)所収
あたしのこいびとは飛行士で
はじめての空を飛んだときに
谷山浩子さんは、いろんな意味で稀有なアーティストですね。
レコードデビューは1972年といいますから、中島みゆきさんよりも先輩で、荒井由実さんや五輪真弓さんと同期。何十万枚も売れたようなヒット曲はないのに、来年はデビュー30年になる本当に息の長い活躍をしているひとです。
また、デビュー曲や若い頃の曲には才能のきらめきがあるのに、年齢を重ねるごとに自己模倣を重ねて凡庸になっていくアーティストはたくさんいますが、逆に若いころよりも最近の作品の方が明らかによくなっているという人も谷山さん以外あまり思いつかないですね。これは単にわたしが、知らないだけかもしれないのですけれども。
真赤な炎吹きあげながら
落ちてきたけど死ななかった
さて、「あたしの恋人」は谷山浩子さんの4thアルバム『鏡の中のあなたへ』の冒頭の曲です。このアルバムは、これまでのアルバムにとりいれてきた不思議の国のアリスや日本昔話などの童話をモチーフとした曲を排し、男女の恋愛をテーマとした、どちらかといえば(あくまで谷山さん的にということですが)リアリズムな感じの曲たちで構成されているアルバムです。
その冒頭に配されたこの曲は、ギターとピアノのシンプルなアレンジでモノローグのように奏でられる3分に満たない小品ですが、初期谷山浩子さんの隠れた代表作ともいうべき名曲だとわたしは思っています。
それから今まで生き続けて
あたしの隣に今もいるわ
これからもずっとこのままだと
あたしの髪をなでながら
まず、「この落ちてきたけど死ななかった」という歌詞の最初のインパンクトが抜群ですね。普通飛行機が真赤な炎を吹き上げながら墜落した場合、不時着するか、パラシュートで脱出するかでもしない限り、パイロットが生存できる可能性は限りなく低いものだと思いますが、どういう理屈や状況があったのかは全く謎ですが、とにかく事実として「落ちてきたけど死ななかった」のです。
ただ「死ななかった」とはいうものの「無事だった」とポジティブに表現されているのではない以上、命こそ繋いだものの、実は重大な障がいを抱えたり植物人間のような状態になっているのではないかという懸念を感じさせる表現でもありますね。
あたしは知ってるあの人が
夜ごとの眠りに夢見るのは
あの日のきらめく風の中で
燃え尽き砕ける自分の姿
しかし、歌詞を素直に聞くならば、何か身体的な障がいを残してしまったというような、とりわけ、江戸川乱歩の『芋虫』のように四肢を失い、五感も失った怪物のように哀れな姿を想像してしまうのはいささかうがち過ぎのように思います。もちろんそのようにも想像してしまうのは自由ですし、そのようにもできることが谷山さんの作品の幅であり魅力でもあるのでしょう。ただ、わたしはそのような身体的な障害の問題は、この曲においてはあまり重要なことではないように思います。
夢からさめればまたためいき
あたしのからだにしがみついて
光のかわりに暗い汗を
風のかわりに口づけを
むしろ落ちてきた彼が、背負ってしまったのは、徹底的に精神的なダメージです。墜落の恐怖は、夜ごとの悪夢、精神的トラウマとなり、もう二度と飛行士として空を飛ぶことはもちろんのこと、人生に何か目標をもってポジティブに生きていくことすらできなくなってしまうように、何か人間としての存在の本質的な要素を根こそぎ奪っていったかのようです。
落ちてくる飛行士のイメージは、ギリシャ神話のイカロスとも重なってみえます。蝋で固めた鳥の羽根を翼に空に飛び立ったイカロスは、あまり高くとんではいけないという父の忠告を無視して、太陽に向かって高く飛びあがり、太陽の熱で羽根を固めた蝋がとけて、たちまちまっさかさまに墜落してしまいます。
理想に燃える青年の純真さとその裏返しでもある無謀な愚かさひ弱さの象徴として繰り返し使われたこの神話のように、落ちてきた飛行士は、社会に出るや否や何かに早々と挫折してしまったエリート青年の象徴のようでもあります。
あなたが好きあなたが好き
死ぬまでそばにいてあげるよ
あなたのものあなたのもの
死ぬまでそばにいてあげるよ
そうして傷ついた元飛行士の彼に、「恋人」の「あたし」は、無辜の愛を持って接します。彼が望むまま、死ぬまでそばで寄り添うという永遠の献身を彼に誓います。二度と飛び立つことのない彼は、彼女を経済的・社会的に幸せにする能力はないかもしれません。そればかりか、彼女の愛にしがみつき、ひたすら身勝手に依存するだけかもしれません。
でも、彼女はそれでもよいという。永遠にあなたのものだという。身も心もあなたに捧げるという。あたかも、罪人をみちびく聖母マリアのような純粋な母性が、俗世を超越した天上の愛がそこには描かれているのでしょうか。この曲はそのように解釈しようと思えばそういう風にも受け取ることが出来るのかもしれないと思います。
しかし、それにしては、この曲の暗さはなんでしょう。無辜の愛を描くにしては、何か全体を貫いて見えるこの後味の悪さはなんでしょう。単なるわたしの錯覚でしょうか。
谷山さんは不思議の国のアリスのような童話世界をモチーフにした作品群が有名ですが、童話そのものが、そもそも、子供向けに語り継がれた美しい仮想の物語の中に、実は現実社会の黒々とした諸問題が密かに織り込まれているように、谷山浩子さんの作品の多くには、決して一面的表面的にはとらえられない多義性が、貫かれているように思います。
一時「本当は恐ろしい○○童話」という本が流行しましたが、谷山さんが童話を作品のモチーフに選んだのもそうした童話のもつ裏表の面白さにいち早く気付いていたからではないでしょうか。
そうしてみると、この曲は単なる美しい無私の愛の姿を描いたものだと解釈してよいはずがありません。
まず初めの引っかかりは、この曲のタイトル「あたしの」恋人です。朋友の中島みゆきさんはともかくとして、谷山さんが作品の中で「あたし」という自称表現を使うのはまれです。「わたし」ではなく「あたし」という蓮っ葉な言葉をあえて選択した時点で、この曲の主人公の女性像が、マリア様のような純粋無垢なものではないことがうかがえます。
では、この女性はなぜ、この「落ちてきた飛行士」にこのような自己犠牲的な愛をそそごうとするのでしょう。また、そのような愛を注がれながらも、いくら深いトラウマがあるとはいえ、その女性に対して、元飛行士の愛情が一向に感じられないのはなぜでしょう。
飛行士の男性とこの女性との関係は決して対等なものではありません。この男性と女性との間には明らかに立場の格差があります。
自由に空を飛びまわる能力を持つ飛行士は、いわばエリートであり、社会的に高い身分の象徴です。具体的に描かれてはいませんが、おそらく美男子で身長も高く金持ちなのではないでしょうか。それに対し、主人公の女性は、例えば娼婦のように社会的に身分が低い存在か、あるいはとんでもない不美人のような、通常なら到底釣り合わない、決して関係を持つことのない存在であり、飛行士が空から落ちてでも来ない限りは決してそばにいることがいることが出来なかったと存在だというふうに想像すれば、この二人の関係はよく理解できるような気がします。
空から落ちた脱落者である男には、再び高みを目指す気概はありません。一方、その男が脱落でもして来なければ決して自分のものになることもなった女の立場としては、その男を精神的に立ち直らせ、再び空へ飛び立たせる必要はありません。むしろ一生自分にしがみついていてくれるダメダメな存在であり続けてくれることが、死ぬまでその男のそばにいることのできる保障でもあるのです。だから、ダメなままでいい、一生そばにいてあげるよと男の耳元で甘く囁くわけです。
さて、そのように考えてみるとこれは献身的な無辜の愛の歌でしょうか。むしろ谷山浩子さんの初期作品でいえば、「あたし、あの男欲しいよお」と男を水の中に引き込もうとする「水蜘蛛」に通低するおどろおどろしさをこの曲に感じないでしょうか。
「死ぬまでそばにいてあげるよ」という言葉とともに唐突に訪れるこの曲のエンディングは、ことばとは裏腹にこのような関係が決して永遠のものではないことを象徴しているかのようです。やがて、男は傷が癒え再び飛び立とうとするかもしれませんし、女はそのような一方的な関係にしだいに倦み疲れていくかもしれません。
しかし、一つ言えることは、谷山さんの暗くて美しい旋律にのせるとき、このような愛の形も美しく尊いものに昇華されてしまうというのだということです。
もちろん、このようにつらつらと書き連ねたことも私の妄想であり、この二人がその後どうなるのかは、わたし達一人一人にゆだねられ、決して語られることはありません。






