今日はゼミの友達と飲み会でした

久々の集まりで楽しかったです。

飲み会中のトークに・・・

もっとゼミをアカデミックにしていかないとなぁ・・・

って声がちょくちょくあがていたのでなんだか嬉しかったです。

みんな3年生になってそろそろ自分の進路について悩みだしているみたいです。

このまま教員になってよいのだろうか・・・‥

もともとみんな責任感が強く熱い人たちの集まりです。

その分、教員として自分に求めるものも厳しいはず・・・

そんな本気の悩み。私はあっていいと思います。

あーでもない、こーでもないと悩んで悩んで悩んだ先にしか

答えはないと思ってます。


モラトリアムのこの期間は・・・「悩む」

そして・・・「もがく」が大切だと思います。

思ったらすぐ行動。TAKE ACTIONです。
先生が生徒を選べないように、

生徒も先生を選べないということを自覚し、

責任を持って職務を行っている教員はどれ位いるのでしょうか?


先生にとっては何百分の一生徒であるが、

生徒にとっては先生は一人ということを自覚し、

責任を持って職務を行っている教員はどれ位いるのでしょうか?


教員として、人として自分の発言や、行動に

責任を持って職務にあったている教員はどれほどいるでしょうか?

退学させることはできても、先生を辞めさせることはできないのか?


教員に対して何らかの不信感を抱く人は

このような疑問を持ったことがあるかと思います。


なぜ、教員を辞めさせることができないのか。

私が思うに、原因は教育というものが

さまざまな場面で教育の効果を数値化できない部分にあると思います。

いちばん身近なものは大学合格者数の実績と偏差値なのですが、

そもそも学力とはなにかと聞かれたときに答えられる人はほとんどいません。

「偏差値」「受験」「大学」「学力」

これをすべて正しく数値化できますか?

なかなか難しい話です。


しかしながら、それでも誰がいい先生で、誰が悪い先生で・・というのはなぜだかわかる。

けれども、それは言ってしまえば個人の価値観であり、主観である。

A学校では最低な先生だったとしても、B学校では最高の先生だった

・・・という話もなくはない。

その点からして、先生を個人的に批判したところで

事態は動きそうにはなさそうだ(無論、法を犯せば即刻懲戒免職ではあるが)


では教育委員会はどうだろうか。

教育委員会も現場との距離がありすぎるので現状は把握しきれない。

そもそも、役所なんかにいい先生と悪い先生の区別なんか付けられるかって話だ。



学校内で評価制にしたところで、

世のダメ先生といわれる方々はことさらに自分を守るのがうまいから、

これがまたうまくくぐりにけて行くんですよ。

うまい具合に管理職にすり寄って点数を稼いでいく。

そうあって成り上がっていった管理職は、管理職になってもだめなまんまなんだろうな。

その校長が行う先生評価って・・・類は友を呼ぶ・・か。


結局のところ学校内の管理職(校長、教頭)が、

現場と教育委員会のパイプとなって、保護者と教員のパイプとなり、

学校内で先生の評価を的確し、

適切な人材配置をしていかなければいけないということになるのだが、

↑のようなぐずぐずな管理職だと、そこが機能せず、学校は破たんし

教育の犠牲となる子供が生まれれのではないでしょうか?

世にいう素晴らしい学校の校長先生ってすごいですもんね。

そういう人として、教員として、校長として素晴らしい

リーダーをもっと育てていかなければいけないと思う。


それと同時に、学校がうまく行ってない時のセーフティーネットが

準備されているのかどうかという課題も残る。

保護者から意見は訴えなのか、苦情なのかを的確に判断し、

子供にとっての最善を尽くすことができる機能は準備されているのだろうか?



今日はオープン戦に行ってきました。

オープン戦ってキャリアの浅い人同士が戦うんですよ。

んで、ここでキャリアを積んで大学のリーグ戦とか、

国体とか全日本選手権に出場していくわけですよ。

うちの大学からも5人出たんですけど・・・

今日は全員勝利クラッカー

日ごろの練習の成果が出てますねグッド!

後輩の勝利を喜びつつ・・・

おれも試合でてぇって思ったあせる